空海の青春
空海の青春 (节选自『青春漂流』)
いまを去る一一八〇年前、空海は平戸の田浦港から遣唐使船に乗って中国に渡った。
距今约1180年前,空海(即日本佛教高僧弘法大师)从平户田浦港乘上遣唐使船远渡到了中国。
四国の讃岐出身の空海は、十八歳の時に京に出て大学に入った。大学というのは、貴族階級の子弟の教育機関で、古代のエリート教育機関である。しかし空海は、せっかく大学に入ったのに、ほどなくしてドロップアウトしてしまう。そして、乞食当然の私度僧(自分勝手に頭を丸めて坊主になること)となって、四国の山奥に入り山岳修行者となる。
生于四国讃岐县的空海,在十八岁时上京进入了大学。当时的大学,是古代贵族子弟就读的精英人才教育机构。尽管好不容易进入了大学,但不久就中途退学了,出家成僧过着乞讨般的生活,其后潜入了四国的深山中修行。
これ以後、三十一歳の年に遣唐使船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたのかは明らかではない。
从那时起直到31岁那一年搭上遣唐使船的这么多年里,没有人知道空海到底在哪里做了些什么。
「謎の空白時代」といわれる。山野をめぐり、寺院をめぐり、修行に修行をつづけたと推定されるだけである。それがいかなる修行であったかは明らかでない。
那是一段成了迷的空白时期。在那段时期中空海所经历的修行是怎样的,始终不为人知。人们只是猜测空海是一直涉足游历于山林与寺院之间,日复一日年复一年地进行修炼学习。
遣唐使船に乗り込んだ空海は一介の無名の留学僧にすぎなかった。彼に注目する者は誰もいなかった。しかし、唐の地に入るや、空海はたちまち頭角をあらわす。十年余にわたる彼の修行時代の蓄積が一挙に吐き出されて、唐人から最高の知識人として遇されるにいたるのである。空海は名もなき留学僧から、密教の全てを伝えられた当代随一の高僧となる。
谁也没有注意到遣唐使船上的空海,当时的他只不过是一介默默无名的留学僧罢了。然而,进入了大唐国后,空海很快便崭露头角,展现出那十多年里修行所积累的成果,被唐人奉为至高无上的知识分子,受到莫大的尊敬。就这样,空海从一名籍籍无名的留学僧成为了当时首屈一指传承密教佛理的得道高僧。
それは、留学の成果というよりは、「謎の空白時代」の修行の成果が、留学を契機に花開いたものというべきであろう。
这与其说是遣唐留学所得的成果,更应该说是“谜样的空白时期”里修行的积累所得,在留学这一契机中结成了丰硕的成就吧。
「謎の空白時代」は、空海の青春である。空海においてそうであったように、青春は誰にとっても「謎の空白時代」としてある。
“谜样的空白时期”正是空海的青春。正如空海那样,无论对谁来说,青春就是那么一段“谜样的空白时期”。
田浦で目前に広がる未知の海を前にして、空海の心中は不安であったろう。船出は、未知のものに、自分の人生を賭けることを意味した。それでも空海は船出した。「謎の空白時代」は、彼に、自分に対する自信を与えていた。自分に対する自信があったから、空海は自分に賭けた。自分の人生を自分に賭けたのである。
只身处于田浦的空海,面对着眼前这片充满未知而广阔的大海,内心必定是充满不安吧。起航,就是意味着将自己的人生赌注在未知的东西上。但空海还是选择了乘船起航。那段“谜样的空白时代”赋予了他对自己十足的信心。正是因为有了这份自信,空海选择了由自己去掌握,将自己的人生赌注在自己身上。
自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それに相応しい自分を作るために、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識的行為ではない。自分が求めるものをとこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。そしてまた、その求めんとする意志が十分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。その時、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。
能够将自己的人生赌注在自己身上,并且成为一个与之相应的更强大的自我,是需要一个刻苦磨练自我的过程的。但这段磨练的过程并不一定是以将来的某个“起航”为前提而刻意去做的。,假如内心抱着无论如何也要追求自己所想追求的这份信念,自然而然便会自发自觉地去磨练自我。而只要这份追求的意志足够强大,下定决心“起航”的日子终有一天会到来。到了那时,“起航”是一次鲁莽冲动的冒险还是当机立断的勇敢启程,就是凭“谜样的空白时期”中积累所得的经验去判断了。
青春とは、やがて来るべき「船出」へ向けての準備が整えられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
青春,是为未来终会来临的“起航”而作准备的“谜样的空白时代”。其中最重要的是一份有所追求的信念。终日庸碌无求,消极散漫地挥霍青春的人,等待他只有任凭世道主宰,得过且过的人生,当然那个“起航”的机会也不会到来。
いまを去る一一八〇年前、空海は平戸の田浦港から遣唐使船に乗って中国に渡った。
距今约1180年前,空海(即日本佛教高僧弘法大师)从平户田浦港乘上遣唐使船远渡到了中国。
四国の讃岐出身の空海は、十八歳の時に京に出て大学に入った。大学というのは、貴族階級の子弟の教育機関で、古代のエリート教育機関である。しかし空海は、せっかく大学に入ったのに、ほどなくしてドロップアウトしてしまう。そして、乞食当然の私度僧(自分勝手に頭を丸めて坊主になること)となって、四国の山奥に入り山岳修行者となる。
生于四国讃岐县的空海,在十八岁时上京进入了大学。当时的大学,是古代贵族子弟就读的精英人才教育机构。尽管好不容易进入了大学,但不久就中途退学了,出家成僧过着乞讨般的生活,其后潜入了四国的深山中修行。
これ以後、三十一歳の年に遣唐使船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたのかは明らかではない。
从那时起直到31岁那一年搭上遣唐使船的这么多年里,没有人知道空海到底在哪里做了些什么。
「謎の空白時代」といわれる。山野をめぐり、寺院をめぐり、修行に修行をつづけたと推定されるだけである。それがいかなる修行であったかは明らかでない。
那是一段成了迷的空白时期。在那段时期中空海所经历的修行是怎样的,始终不为人知。人们只是猜测空海是一直涉足游历于山林与寺院之间,日复一日年复一年地进行修炼学习。
遣唐使船に乗り込んだ空海は一介の無名の留学僧にすぎなかった。彼に注目する者は誰もいなかった。しかし、唐の地に入るや、空海はたちまち頭角をあらわす。十年余にわたる彼の修行時代の蓄積が一挙に吐き出されて、唐人から最高の知識人として遇されるにいたるのである。空海は名もなき留学僧から、密教の全てを伝えられた当代随一の高僧となる。
谁也没有注意到遣唐使船上的空海,当时的他只不过是一介默默无名的留学僧罢了。然而,进入了大唐国后,空海很快便崭露头角,展现出那十多年里修行所积累的成果,被唐人奉为至高无上的知识分子,受到莫大的尊敬。就这样,空海从一名籍籍无名的留学僧成为了当时首屈一指传承密教佛理的得道高僧。
それは、留学の成果というよりは、「謎の空白時代」の修行の成果が、留学を契機に花開いたものというべきであろう。
这与其说是遣唐留学所得的成果,更应该说是“谜样的空白时期”里修行的积累所得,在留学这一契机中结成了丰硕的成就吧。
「謎の空白時代」は、空海の青春である。空海においてそうであったように、青春は誰にとっても「謎の空白時代」としてある。
“谜样的空白时期”正是空海的青春。正如空海那样,无论对谁来说,青春就是那么一段“谜样的空白时期”。
田浦で目前に広がる未知の海を前にして、空海の心中は不安であったろう。船出は、未知のものに、自分の人生を賭けることを意味した。それでも空海は船出した。「謎の空白時代」は、彼に、自分に対する自信を与えていた。自分に対する自信があったから、空海は自分に賭けた。自分の人生を自分に賭けたのである。
只身处于田浦的空海,面对着眼前这片充满未知而广阔的大海,内心必定是充满不安吧。起航,就是意味着将自己的人生赌注在未知的东西上。但空海还是选择了乘船起航。那段“谜样的空白时代”赋予了他对自己十足的信心。正是因为有了这份自信,空海选择了由自己去掌握,将自己的人生赌注在自己身上。
自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それに相応しい自分を作るために、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識的行為ではない。自分が求めるものをとこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。そしてまた、その求めんとする意志が十分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。その時、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。
能够将自己的人生赌注在自己身上,并且成为一个与之相应的更强大的自我,是需要一个刻苦磨练自我的过程的。但这段磨练的过程并不一定是以将来的某个“起航”为前提而刻意去做的。,假如内心抱着无论如何也要追求自己所想追求的这份信念,自然而然便会自发自觉地去磨练自我。而只要这份追求的意志足够强大,下定决心“起航”的日子终有一天会到来。到了那时,“起航”是一次鲁莽冲动的冒险还是当机立断的勇敢启程,就是凭“谜样的空白时期”中积累所得的经验去判断了。
青春とは、やがて来るべき「船出」へ向けての準備が整えられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
青春,是为未来终会来临的“起航”而作准备的“谜样的空白时代”。其中最重要的是一份有所追求的信念。终日庸碌无求,消极散漫地挥霍青春的人,等待他只有任凭世道主宰,得过且过的人生,当然那个“起航”的机会也不会到来。
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樱兰里凤镜夜的画 |