翻译 2017年7月19日(水) 天声人语 产经抄 桌上四季
天声人语:
医師の日野原重明さんはおととしのある朝、左手の薬指と小指が曲がらず慌てた。「脳か神経に異常か」。仰々しい検査を受けるが、軽いマッサージだけで完治する。「内科医として半世紀以上の経験があるが、骨や筋肉の病気にはまるで素人だとわかった」
医师日野原重明先生在前年的某天早上因为左手的无名指和小拇指不能弯曲而慌张不已。他心想:“是因为脑部或者神经有异常吗?”于是夸张地检查了一番,但结果只是简单地按摩几下便好了。“经过那件事我明白了,虽然自己当了半个多世纪的内科医生,但对于骨骼、肌肉的疾病还完全是个外行”。
▼なでしこジャパンの試合をテレビで観戦中、興奮しすぎて気分が悪くなり入院したこともある。「血圧の高い患者さんに『試合の生中継は危ない。見るなら録画を』と勧めておきながら、自分は」と反省した
还有一次,他在电视上看日本女足的比赛时,因为太兴奋而感觉身体不舒服,最后住进了医院。之后他反省道:“自己劝高血压患者‘看比赛直播很危险,要看的话就看重播’,但自己却还看直播。”
▼本紙の週末別刷りbeの連載「あるがまゝ行く」に載った体験である。偉ぶらず、飾らない筆致にひかれた。毎回、身近な話題から書き起こし、孔子や老子、ナイチンゲールや詩人タゴールの高みへ読者をいざなった
这些都是他在本报的周末小册子《be》上连载的《就这样走下去》中介绍的亲身经历。其不自大、不修饰的笔调让人着迷。每一回都从身边话题写起,然后将读者吸引到孔子、老子、南丁格尔和诗人泰戈尔的高度。
▼日野原さんが105歳で亡くなった。医学界に多くの足跡を残したが、脳卒中や心臓病を「成人病」でなく「習慣病」と呼び改めるよう提唱した功績は大きい。成人ならいずれ患うものと半ばあきらめてきた疾病が、生活習慣を改めれば避けられると気づかせてくれた
日野原先生以105岁高龄去世了。他在生前给医学界留下了许多成就,其中将中风、心脏病由“成人病”改称为“习惯病”的倡议功绩最大。这一改称让我们意识到了,过去一直以为成年人早晚会患上而多半听之任之的疾病,只要改变生活习惯就可以避免。
▼「人生とは習慣である」「死ぬ瞬間まで人生の現役」「年齢は勝ち負けではありません。謙虚にそして存分に味わえばよいのです」。自著や対談、講演でそんな哲学を縦横に語った。病気の治し方ではなく、長寿社会を生き抜く知恵を教わった気がする
“人生即习惯”“人生至死方停歇”“年龄长短没有输赢,只要谦虚并且充分地品味人生便可以了”。他在自著、谈话和讲演中尽情地抒发了这些人生感想。我们从他那里学到的好像不是治病方法,而是在长寿社会生活下去的智慧。
▼91歳の秋に始まったbeの連載は、すでに700回を超えている。当面は書きためた原稿の掲載が続く。達意のコラムを味わいたい。
他从91岁的秋天起开始在《be》上执笔的连载已经超过了700回。眼下我们还会继续刊载已经写好的原稿。建议读者仔细品味通情达意的该专栏。
产经抄:
靖国参拝欠かさず、司馬さんに挙手の礼…「愛日家」からのメッセージ 7月19日
不忘参拜靖国,对司马辽太郎行举手礼…“爱日家”送来的话语
司馬遼太郎さんは、『台湾紀行』の取材の案内役として当初大学院生を考えていた。ところが、紹介されたのは実業家として成功する蔡焜燦(さいこんさん)さんである。「えらすぎる」。そんな司馬さんの戸惑いを見透かしたように、蔡さんは初対面で驚きの行動に出た。
司马辽太郎在为创作《台湾纪行》而到台湾收集素材时,最初是打算找大学研究生当向导。但是别人给他介绍的是成功的实业家蔡焜灿先生。“身份有点高啊。”好像是看穿了司马先生有这样的困惑,蔡先生在初次会面时做出了一个惊人的举动。
▼挙手の礼をもっての挨拶である。日本統治時代の台湾に生まれた蔡さんは戦時中、志願して陸軍少年飛行兵となる。陸軍航空整備学校で世話になった教官が、当時陸軍少尉だった司馬さんの同期にあたるという。司馬さんは“上官”として答礼せざるを得ない。敬礼、答礼は2人だけの挨拶として続いた。
用举手礼向司马打招呼。蔡先生出生于日本统治时代的台湾,在战争时期曾志愿入伍当上了一名陆军少年飞行兵。在陆军航空整备学校对其非常照顾的教官据说相当于当时是陆军少尉的司马的同期。司马作为“上级”不得不进行回礼。敬礼和回礼后来就成为了二人之间的见面问候。
▼戦後台湾に帰った蔡さんの経歴はめまぐるしい。小学校の体育の教師、発電ランプの販売、うなぎやえびの日本への輸出、そして電子会社の経営である。「愛日家」を自任する蔡さんは、「『大和魂』で艱難(かんなん)辛苦を乗り越えてきた」結果と振り返る。その蔡さんの訃報が届いた。90歳だった。
蔡先生在战后回到台湾后的经历让人眼花缭乱。当过小学体育老师,卖过自行车发电车灯,向日本出口过鳗鱼和虾,之后经营起了电子公司。以“爱日家”自居的蔡先生在回顾过去时表示,这些都是“靠着‘大和魂’克服了艰难困苦”后的结果。如今传来了这位蔡先生的讣闻,享年90岁。
▼『台湾紀行』は、日本と台湾の両方でベストセラーとなる。「老台北(ラオタイペイ)」の愛称で登場する蔡さんは、すっかり有名人となった。『紀行』をきっかけにして、李登輝元総統との交友も深まり、公式の席で日本語で会話する姿も見られた。
《台湾纪行》在日本和台湾两地都成为了畅销书。以“老台北”这个爱称登场的蔡先生完全成为了名人。以《纪行》的出版为契机,蔡还同前总统李登辉有了深厚的私交,在正式场合二人还曾用日语进行交谈。
▼蔡さんは、台湾を訪れる日本人の若者をしばしば食事に招いた。歴史から和歌などの文芸、剣道に至るまで、日本文化の博覧強記ぶりを見せつけたあと、こう諭すのが常だった。「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」。
蔡先生常常宴请访问台湾的日本年轻人。从历史谈到和歌等文艺,再到剑道,蔡先生每每都展示了对日本文化的见多识广,之后还会教导年轻人:“作为宴请的答谢,你要爱自己的祖国。”
▼もっとも、日本への苦言も忘れない。来日のたびに靖国神社参拝を欠かさない蔡さんにとって、自国をさげすむ歪曲(わいきょく)した歴史観は看過できなかった。その思いの丈をぶちまけた著書『台湾人と日本精神』は、ロングセラーを続けている。
不过,也不能忘记他对日本的忠告。对于每次来日本时都不忘参拜靖国神社的蔡先生来说,轻蔑自己国家的歪曲历史观实在看不下去。他毫不保留思慕之情创作的《台湾人与日本精神》一书长期是畅销书籍。
桌上四季:
老師の風格
老先生的风格
「長老」や「古老」「老師」と、かつては尊敬のまなざしで見られていた「老い」というものが、昨今は「老衰」「老廃」「老醜」と負の印象で捉えられている。そんな社会の中で存在意義を見いだせない寂しさが、お年寄りの生きづらさにつながっている―。そう分析したのは哲学者の鷲田清一さんだ
“长老”“古老”“老先生”,人们过去一直用尊敬的目光看待“老”,但近来则是通过“衰老”“老废”“老丑”之类的负面印象来理解它。在这样的社会中找不到存在意义而带来的寂寞感造成了老年人生活的艰辛——做出此种分析的是哲学研究学者鹫田清一。
▼ならば、年を取っても自分なりの存在意義が見つけられれば老いを豊かにできるはず。きのう、105歳で亡くなった医師の日野原重明さんは、そう考え「新老人の会」を設立した
这样的话,那么就算是上了年纪,只要找到自己的存在价值就能够让自己的晚年变得充实。昨天,以105岁高龄去世的医师日野原重明先生是这样认为的,于是成立了“新老人会”。
▼65歳までが第一の人生、74歳までは助走期間。新老人の75歳からは、趣味でもボランティアでも新しいことに挑戦しようと呼び掛けた。自らも90歳を過ぎてパークゴルフや俳句を始め、ミュージカル制作にも携わった
65岁前是人生第一阶段,65岁到74岁是第二阶段,是助跑时期。他号召新老人们从75岁起去挑战新事物,不管是兴趣爱好还是当志愿者。他自己也在年过90之后开始打公园高尔夫、写俳句,还参与了音乐剧的创作。
▼「モデルとなるすてきなシニアがいれば、その目標に向けていくつになっても努力できる」。そう言って、精力的に「生涯現役」を続けた日野原さん自身が、多くの高齢者の目標となった
“有出色的前辈成为目标的话,无论到何时都能朝着目标努力。”这样说,并且精力充沛地贯彻了“终生在职”的日野原先生自己便成为了许多高龄人的目标。
▼生前から「死とは生き方の最後の挑戦」と語っていた。だから、過度な延命措置を望まず、体調を崩しても胃ろうや経管栄養補給を辞退した。自ら提言してきた望ましい人生の終え方を、身をもって実践しようとしたのだろう
他在生前一直说:“死是生活方式的最后挑战。”因此,他没有指望用什么方法过度地延长寿命。即便是健康状况下降了,他也拒绝胃造口术或者胃管喂食。他是打算亲身实践自己提出的人生最理想的结束方式吧。
▼死のふちまで果敢に挑戦を続け、かっこよく、爽やかに老いを駆け抜けた。まさに老師の風格で、穏やかに天国に旅立っていった。
直到临近死亡边缘,一直果敢地进行着挑战,潇洒、爽快地跑过了老年时光。日野原先生正是以这种老先生的风格,安详地前往了天国。
医師の日野原重明さんはおととしのある朝、左手の薬指と小指が曲がらず慌てた。「脳か神経に異常か」。仰々しい検査を受けるが、軽いマッサージだけで完治する。「内科医として半世紀以上の経験があるが、骨や筋肉の病気にはまるで素人だとわかった」
医师日野原重明先生在前年的某天早上因为左手的无名指和小拇指不能弯曲而慌张不已。他心想:“是因为脑部或者神经有异常吗?”于是夸张地检查了一番,但结果只是简单地按摩几下便好了。“经过那件事我明白了,虽然自己当了半个多世纪的内科医生,但对于骨骼、肌肉的疾病还完全是个外行”。
▼なでしこジャパンの試合をテレビで観戦中、興奮しすぎて気分が悪くなり入院したこともある。「血圧の高い患者さんに『試合の生中継は危ない。見るなら録画を』と勧めておきながら、自分は」と反省した
还有一次,他在电视上看日本女足的比赛时,因为太兴奋而感觉身体不舒服,最后住进了医院。之后他反省道:“自己劝高血压患者‘看比赛直播很危险,要看的话就看重播’,但自己却还看直播。”
▼本紙の週末別刷りbeの連載「あるがまゝ行く」に載った体験である。偉ぶらず、飾らない筆致にひかれた。毎回、身近な話題から書き起こし、孔子や老子、ナイチンゲールや詩人タゴールの高みへ読者をいざなった
这些都是他在本报的周末小册子《be》上连载的《就这样走下去》中介绍的亲身经历。其不自大、不修饰的笔调让人着迷。每一回都从身边话题写起,然后将读者吸引到孔子、老子、南丁格尔和诗人泰戈尔的高度。
▼日野原さんが105歳で亡くなった。医学界に多くの足跡を残したが、脳卒中や心臓病を「成人病」でなく「習慣病」と呼び改めるよう提唱した功績は大きい。成人ならいずれ患うものと半ばあきらめてきた疾病が、生活習慣を改めれば避けられると気づかせてくれた
日野原先生以105岁高龄去世了。他在生前给医学界留下了许多成就,其中将中风、心脏病由“成人病”改称为“习惯病”的倡议功绩最大。这一改称让我们意识到了,过去一直以为成年人早晚会患上而多半听之任之的疾病,只要改变生活习惯就可以避免。
▼「人生とは習慣である」「死ぬ瞬間まで人生の現役」「年齢は勝ち負けではありません。謙虚にそして存分に味わえばよいのです」。自著や対談、講演でそんな哲学を縦横に語った。病気の治し方ではなく、長寿社会を生き抜く知恵を教わった気がする
“人生即习惯”“人生至死方停歇”“年龄长短没有输赢,只要谦虚并且充分地品味人生便可以了”。他在自著、谈话和讲演中尽情地抒发了这些人生感想。我们从他那里学到的好像不是治病方法,而是在长寿社会生活下去的智慧。
▼91歳の秋に始まったbeの連載は、すでに700回を超えている。当面は書きためた原稿の掲載が続く。達意のコラムを味わいたい。
他从91岁的秋天起开始在《be》上执笔的连载已经超过了700回。眼下我们还会继续刊载已经写好的原稿。建议读者仔细品味通情达意的该专栏。
产经抄:
靖国参拝欠かさず、司馬さんに挙手の礼…「愛日家」からのメッセージ 7月19日
不忘参拜靖国,对司马辽太郎行举手礼…“爱日家”送来的话语
司馬遼太郎さんは、『台湾紀行』の取材の案内役として当初大学院生を考えていた。ところが、紹介されたのは実業家として成功する蔡焜燦(さいこんさん)さんである。「えらすぎる」。そんな司馬さんの戸惑いを見透かしたように、蔡さんは初対面で驚きの行動に出た。
司马辽太郎在为创作《台湾纪行》而到台湾收集素材时,最初是打算找大学研究生当向导。但是别人给他介绍的是成功的实业家蔡焜灿先生。“身份有点高啊。”好像是看穿了司马先生有这样的困惑,蔡先生在初次会面时做出了一个惊人的举动。
▼挙手の礼をもっての挨拶である。日本統治時代の台湾に生まれた蔡さんは戦時中、志願して陸軍少年飛行兵となる。陸軍航空整備学校で世話になった教官が、当時陸軍少尉だった司馬さんの同期にあたるという。司馬さんは“上官”として答礼せざるを得ない。敬礼、答礼は2人だけの挨拶として続いた。
用举手礼向司马打招呼。蔡先生出生于日本统治时代的台湾,在战争时期曾志愿入伍当上了一名陆军少年飞行兵。在陆军航空整备学校对其非常照顾的教官据说相当于当时是陆军少尉的司马的同期。司马作为“上级”不得不进行回礼。敬礼和回礼后来就成为了二人之间的见面问候。
▼戦後台湾に帰った蔡さんの経歴はめまぐるしい。小学校の体育の教師、発電ランプの販売、うなぎやえびの日本への輸出、そして電子会社の経営である。「愛日家」を自任する蔡さんは、「『大和魂』で艱難(かんなん)辛苦を乗り越えてきた」結果と振り返る。その蔡さんの訃報が届いた。90歳だった。
蔡先生在战后回到台湾后的经历让人眼花缭乱。当过小学体育老师,卖过自行车发电车灯,向日本出口过鳗鱼和虾,之后经营起了电子公司。以“爱日家”自居的蔡先生在回顾过去时表示,这些都是“靠着‘大和魂’克服了艰难困苦”后的结果。如今传来了这位蔡先生的讣闻,享年90岁。
▼『台湾紀行』は、日本と台湾の両方でベストセラーとなる。「老台北(ラオタイペイ)」の愛称で登場する蔡さんは、すっかり有名人となった。『紀行』をきっかけにして、李登輝元総統との交友も深まり、公式の席で日本語で会話する姿も見られた。
《台湾纪行》在日本和台湾两地都成为了畅销书。以“老台北”这个爱称登场的蔡先生完全成为了名人。以《纪行》的出版为契机,蔡还同前总统李登辉有了深厚的私交,在正式场合二人还曾用日语进行交谈。
▼蔡さんは、台湾を訪れる日本人の若者をしばしば食事に招いた。歴史から和歌などの文芸、剣道に至るまで、日本文化の博覧強記ぶりを見せつけたあと、こう諭すのが常だった。「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」。
蔡先生常常宴请访问台湾的日本年轻人。从历史谈到和歌等文艺,再到剑道,蔡先生每每都展示了对日本文化的见多识广,之后还会教导年轻人:“作为宴请的答谢,你要爱自己的祖国。”
▼もっとも、日本への苦言も忘れない。来日のたびに靖国神社参拝を欠かさない蔡さんにとって、自国をさげすむ歪曲(わいきょく)した歴史観は看過できなかった。その思いの丈をぶちまけた著書『台湾人と日本精神』は、ロングセラーを続けている。
不过,也不能忘记他对日本的忠告。对于每次来日本时都不忘参拜靖国神社的蔡先生来说,轻蔑自己国家的歪曲历史观实在看不下去。他毫不保留思慕之情创作的《台湾人与日本精神》一书长期是畅销书籍。
桌上四季:
老師の風格
老先生的风格
「長老」や「古老」「老師」と、かつては尊敬のまなざしで見られていた「老い」というものが、昨今は「老衰」「老廃」「老醜」と負の印象で捉えられている。そんな社会の中で存在意義を見いだせない寂しさが、お年寄りの生きづらさにつながっている―。そう分析したのは哲学者の鷲田清一さんだ
“长老”“古老”“老先生”,人们过去一直用尊敬的目光看待“老”,但近来则是通过“衰老”“老废”“老丑”之类的负面印象来理解它。在这样的社会中找不到存在意义而带来的寂寞感造成了老年人生活的艰辛——做出此种分析的是哲学研究学者鹫田清一。
▼ならば、年を取っても自分なりの存在意義が見つけられれば老いを豊かにできるはず。きのう、105歳で亡くなった医師の日野原重明さんは、そう考え「新老人の会」を設立した
这样的话,那么就算是上了年纪,只要找到自己的存在价值就能够让自己的晚年变得充实。昨天,以105岁高龄去世的医师日野原重明先生是这样认为的,于是成立了“新老人会”。
▼65歳までが第一の人生、74歳までは助走期間。新老人の75歳からは、趣味でもボランティアでも新しいことに挑戦しようと呼び掛けた。自らも90歳を過ぎてパークゴルフや俳句を始め、ミュージカル制作にも携わった
65岁前是人生第一阶段,65岁到74岁是第二阶段,是助跑时期。他号召新老人们从75岁起去挑战新事物,不管是兴趣爱好还是当志愿者。他自己也在年过90之后开始打公园高尔夫、写俳句,还参与了音乐剧的创作。
▼「モデルとなるすてきなシニアがいれば、その目標に向けていくつになっても努力できる」。そう言って、精力的に「生涯現役」を続けた日野原さん自身が、多くの高齢者の目標となった
“有出色的前辈成为目标的话,无论到何时都能朝着目标努力。”这样说,并且精力充沛地贯彻了“终生在职”的日野原先生自己便成为了许多高龄人的目标。
▼生前から「死とは生き方の最後の挑戦」と語っていた。だから、過度な延命措置を望まず、体調を崩しても胃ろうや経管栄養補給を辞退した。自ら提言してきた望ましい人生の終え方を、身をもって実践しようとしたのだろう
他在生前一直说:“死是生活方式的最后挑战。”因此,他没有指望用什么方法过度地延长寿命。即便是健康状况下降了,他也拒绝胃造口术或者胃管喂食。他是打算亲身实践自己提出的人生最理想的结束方式吧。
▼死のふちまで果敢に挑戦を続け、かっこよく、爽やかに老いを駆け抜けた。まさに老師の風格で、穏やかに天国に旅立っていった。
直到临近死亡边缘,一直果敢地进行着挑战,潇洒、爽快地跑过了老年时光。日野原先生正是以这种老先生的风格,安详地前往了天国。
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