村上春树 02 | (中日双语)《终究悲哀的外国语》(1)
这是“跟着村上大叔吃喝玩乐”中日版读书笔记系列整理的第二本。第一本《旋涡猫的找法》其实是它的续篇。这本书集结了村上1991年~1992年在美国讲学期间写下的散文。1984年他曾经去普林斯顿大学巡礼,因为那是他喜爱的作家菲茨杰拉德的母校。平静的普林斯顿让他心生向往,1990年的某日,他与美国友人闲聊时谈及“希望在普林斯顿一样安静的地方不受任何干扰自由自在写小说”的想法,怎料,这位朋友行动力极强,立马安排了村上去普林斯顿大学授课并长住。时值海湾战争开战,又恰逢珍珠港事件50周年,美国国内政治情绪高涨。村上形容他在美国的第一年生活是”相当沉重“。读开头几篇,也的确是在探讨一些严肃的社会话题。不过,因为多少和我专业有关,当做是历史社会学的材料来读,读起来倒也有趣。这次整理时,除了挑出我喜欢的一些想法和遣词造句以外,还注意尽量使摘录内容本身具有内在逻辑性。
前言(写于1993年12月@波士顿)
1 第一次去新泽西州普利斯顿是在1984年夏天。去普林斯顿的原因相当简单,无非因为普林斯顿大学是菲茨拉杰德的母校,而我想亲眼看一下那个校园。此外没什么特别的事。记得当时感叹过好一个富有牧歌情调的和平地方。也是因为放暑假,偌大的校园里几乎没有人影。街上一派懒散气息,没有半点活气。早上跑步时,到处都有很多兔子,松鼠也遍地都是。
最初にニュージャージ州プリンストンを訪れたのは1984年の夏のことである。プリンストンに来たのは、プリンストン大学がフィッツジェラルドの母校であり、そのキャンパスを自分の目で一度見てみたいというだけのかなり単純な理由からだった。特にそれ以外の用事があったわけではない。なんだかずいぶん平和で牧歌(ぼっか)的なところだなあと思ったことを覚えている。夏休みというせいもあって、広大なキャンパスには人影もほとんどなく、町も死んだみたいにぼおっとしていた。朝ジョギングをするときに、あたりでたくさんの兎を見かけた。リスもそこらじゅうにいた。

2 1990年秋天。我们又一次手忙脚乱地打点行装,做去美国的准备。其实我和妻刚刚结束了三年欧洲生活返回日本,还没明白怎么回事又要旅居外国,匆忙是觉得有点儿过于匆忙,却又不愿意错过长住普林斯顿的难得机会。
それが1990年の秋のことだった。僕らはまたあたふたと荷物をまとめてアメリカに行く準備を始めた。僕と女房はその年の初めに三年間にわたるヨーロッパ滞在をやっと終えて日本に戻って来たばかりだったのだけれど、なんだかわけのわからないうちにまた外国に移り住むことになったわけだ。ちょっと忙しすぎるような気もしたが、プリンストンに住むせっかくのチャンスを逃したくはなかった。
3 一月去美国领事馆取签证时,正赶上海湾战争打响。我们在去赤坂的出租车上听到美军用导弹轰炸巴格达的消息。去正打仗的国家并在那里生活不是那么愉快的事情。虽然结果上没受到战争的直接影响,但老实说,当时美国弥散的爱国而好战的气氛很难令人开心。
一月にアメリカ領事館にビザを取りに行ったときに、ちょうど湾岸戦争が始まった。僕らは赤坂に向かうタクシーの中で、アメリカ軍がバグダッドをミサイル攻撃したというニュースを聞いた。戦争をしている国に行ってそこで生活するというのはあまり気持の良いものではない。結果的には戦争による直接的な影響を受けるようなことはなかったわけだが、正直に言って、その当時のアメリカの愛国的かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった。
4 正要舒一口气的时候,紧接着全美国开始纪念珍珠港事件50周年,anti Japan风潮日益高涨。日本如何报道的我不知道,而实际置身其中生活起来可相当不是滋味。总觉得有点儿别扭,或者说时常觉得四周空气里有带刺的东西一下一下地扎人。
これでやっと一息つけるかと思ったら、今度はパールハーバー50周年記念に向けてアメリカ全土でアンチ・ジャパンの気運が次第に高まってきた。日本でどのような報道がなされたのかは知らないけれど、実際にその中に身を置いて暮らしているとこれはかなりきつかった。どうも何となく居心地が悪いというか、周りの空気の中に刺のようなものをちくちく感じることがよくあった。
5 总的来说,我属于边写边思考这一类型。作家或许多多少少都有这样的倾向,大多时候置换成文字后再从视觉上思考,这样更觉得心应手。
作家というのは多かれ少なかれみんなそうなのかもしれないけれど、僕はどちらかというと、字を書きながらものを考えていく人間である。文字に置き換えて、視覚的に思考する方が楽なことが多い。
6 从内部全面审视这个国家,深深感到一胜再胜永远胜这东西也是相当吃不消的事。我觉得,一个国家也好,一个人也好,挫折或失败这种东西在某个阶段恐怕还是必要的。
この国を内側からつぶさに見ていると、勝って勝って勝ちまくるというのも結構大変なことなのだなあとつくづく痛感する。国でも人間でも、挫折や敗北というものが何かの節目においてやはり必要とされるのかもしれないという気がする。
7 若要问别处有没有一个能够提供取代美国的明确而强有力的价值观的国家,则眼下还没有。在这个意义上,现在一般美国人怀有的深重的疲惫感和现在日本人感觉到的坐立不安大概是互为表里的。简单说来,或许就是拥有明确理念造成的疲惫和没有明确理念带来的不适。
アメリカに取って代わるだけの明確かつ強力な価値観を提供できる国家が現在他にあるかというと、これはない。そういう意味では、現在の一般的アメリカ人が感じている深い疲弊の感覚は、現在の日本人が感じているむずむずした居心地の悪さと裏表をなすものではないかという気がする。単純に言ってしまえば、明確な理念のある疲れと、明確な理念のない居心地の悪さ、ということになるかもしれない。(民主,自由,平等,个人主义应该是包含美国在内的西方国家社会的核心价值观。村上之所以说日本社会没有明确的理念,是否是指,虽然日本作为老牌资本主义国家率先步入现代化进程,他们接受并践行这些理念,但不管怎么说仍旧是舶来品,在本土化的过程中,难免变得模糊不清似是而非,构成社会演化的一种非自然生长状态。从实际感受来说,关于“文明”和“进步”,日本社会在很多层面仍以欧美唯首是瞻。其实学术领域也是。习惯于以别人制定的却不符合实际的标准来衡量自己,那的确会被搞得六神无主。)
8 我觉得日本也好美国也好,生活的基本质量是没有多大差别的。当然由于年龄和处境不同,情况自会不同。特别是年轻时候在外国生活,容易受外部影响,心也摇摆不定。我认为这是理所当然的。所谓年轻就是这么回事。但就我个人而言,无论在美国还是在日本,生活形态都大同小异。
日本にいたって、アメリカにいたって、生活の基本的な質というのはそれほど大きくは変わらないんじゃないかというのが僕の正直な感想である。もちろん年齢や立場によって事情は変わってくるだろう。特に若いときに外国で生活すれば、いろんな外的影響も受けやすいし、心も揺れ動くはずだ。それはそれで自然なことだと思う。若いというのはそういうものなのだから。でも僕個人に関していえば、アメリカにいても日本にいても、生活の姿勢にはそれほどの変わりはない。
9 人生途中这样的事情体验的多了,“还是日本好”“还是美国好”这类非此即彼式的看法似乎就渐渐淡化了。我已不那么年轻了,对事物的看法已被训练得多少实际些了,或者说开始带有怀疑眼光了。
人生の過程においてそういうことを何度も経験していると、「やっぱり日本の方がいい」とか「アメリカの方がいい」とかいった二者択一的なものの見方はだんだんん希薄になってくるように思う。僕はもうそれほど若くないし、もう少し実際的な、あるいは懐疑的な、ものの見方をするように訓練されてしまっている。