ポストフェミニズムから99%のためのフェミニズムへ(菊地夏野)
最近在学ポストフェミニズム,这篇文章算是目前看到的日本的一个比较好的总结吧。不知道能不能发出来……对mcrobbie和gill的观点整理与对日本现状的讨论。
本論は、近年日本でも注目されつつあるポストフェミニズム論はどのようなものなのか紹介し、それが日本ではどのような意味を持って捉えられるのか、またそれによって現在何が見えてくるのかということを考察したい。全体を通して、ポストフェミニズムを論じることは、フェミニズムとは何か、その目的について根本的に考えることになるということを主張したい。
I ポストフェミニズムとネオリベラル·フェミニズムとは何か
まず、ポストフェミニズム論の概略を述べたい。英米で「ポストフェミニズム」という言葉が語られ始めたのは、1980年代からバックラッシュが進行する中であった。70年代の活発なフェミニズム運動の時代の後に、強烈な保守派からのバックラッシュを経て、メディアで「フェミニズムは終わった」という語りが普及し定着していく。ここでまず注意すべき点は、よくある誤解だが、ポストフェミニズム論は、その「フェミニズムは終わった」という認識に立つものではないということである。反対に、そういう語りや意識が社会に充満している状況を批判的に分析しようとするフェミニズムの一つの立場である。そのさいに一番難しいのが、ポストフェミニズム時代におけるフェミニズムの表象、イメージだ。
ポストフェミニズムの初期には、フェミニズムを当然視すると同時にフェミニズムを否定するというパターンがあった。「ジェンダー平等は正しいけど、もう私たちの世代では達成されてるよね」という意識である。それがこのところ変わりつつあり、このフェミニズムのイメージをどう分析するかということが議論されている。前提としてフェミニズムが見えにくい時代に今はあるということである。70~80年代のようにフェミニズムというと世間では変わり者に見られるけれどアクセスできれば顔が見えてコミュニティが作れた時代とは大きく異なっている。フェミニズムが広く拡散した分、内実が見えにくくいろいろなものに利用されやすくなっている。この分かりにくさを分析しようとするのがポストフェミニズム論である。
ポストフェミニズム論の代表的な著作がアンジェラ·マクロビーの『フェミニズムの余波(the aftermath of feminism)』*1 である。マクロビーはポストフェミニズムを、「70—80年代のフェミニストが勝ち取った成果に対するバックラッシュとは別の、ある新しい種類の反フェミニスト的感情によって特徴づけられる社会文化的状況」と定義している。マクロビーによれば、ボストフェミニズムにおいては「エンパワメント」や「選択」という言葉がより個人主義的な言説へ転換されて使われる。もともとフェミニズムが生み出したこれらの言葉は、女性同士の共同性によって支えられるものだったが、ポストフェミニズム下では、個人的に努力して得られるものという意味合いが前面に出る。こうした一見フェミニズム的ではあるが中身はだいぶすり替わった言葉が、マスメディアやポピュラーカルチャーの中で、さらに国家の政策として広く用いられるようになる。同時に、フェミニズムに対する激しい拒否や告発が広がる。「男女平等」が当然のこととされながらも、若い世代の間で、フェミニズムはださい、恥ずかしいものだというイメージが広がることを指している。
マクロビーは90年代から2000年代初めにかけて世界的に流行した三つのドラマを分析している。『プリジット·ジョーンズの日記』『アリー·マイラプ』『セックス·アンド·ザ·シティ』である。どれも大都会で働く若い女性の物語だが、マクロビーはそれらについて「フェミニズムの幽霊」の存在を見てとる。例えば『ブリジット·ジョーンズの日記』の主人公ブリジット·ジョーンズは常に自虐的でダイエットに失敗したり職場でミスしたりしながら日々を送っているが、いつか素敵な男性と巡り合って結婚することを夢見ている。そして観客はそのようなブリジットの空想を笑うよう仕向けられるが、その笑いは、「現代の女性は男性に頼らず自立しなければいけない」という「フェミニズム的な」ルールを前提としているからではないかとマクロビーは読み解く。そのフェミニズムイメージが作品に組み込まれていて、観客はそのルールとブリジットのズレを笑うよう促される。もちろんそれが本当にフェミニズムかどうかは分からないが、どちらにしてもフェミニズムはそのように若い女性を規制し厳しく叱るようなものとして想定されていると。そしてプリジットは、そのような「フェミニズム」とは距離を置き、女性性を楽しみ、セクハラを受け流し、生物学的な時計を気にしながら男性との恋愛に向けて自分を磨く。そうしてフェミニズムは埋葬されていく。
もう一人代表的な論を紹介したい。ロザリンド·ギル (Gill, 2007) はメディアに現れる感性としてのポストフェミニズムを六つの特徴から定義している。ポストフェミニズム下ではまず第一に女性性が身体的資産として認知される。女性らしさは生まれ持ってとか社会的にとかを超えて、女性が活用すべき財産だと考えられる。第二に、それは、2000年代以降の文化の「性化(sexualization)」の中で広がり、SNS上で女性が自分の身体を露出して提示することが普及する。第三に、それは女性の性的客体化から主体化への移行をも意味している。第四に、そういった行為は全て女性自身の選択に基づいて行われ、それによって女性がエンパワーされるからよいのだという個人主義が成立している。そして第五に性的差異の再肯定だが、女性というカテゴリーがクローズアップされ、男性との生物学的違いが論じられ、それに基づいた語りが増え、商品やサービスが開発される。最後にフェミニズムの当然視と否定だが、フェミニズムは古い考えとして設定され、それとは違うポストフェミニスト像が祝福される。
これらは主に英米の状況を念頭に論じられているが、日本でも十分当てはまると私は考えている。特に分かりやすいのが「女子力」という概念である。近年、日本では若い女性は自ら進んで女子力を磨き、自己を高めるのがよいことだと考えられている(菊地、2019a)。ただし重要なのは、性的な要素が日本では薄く、セクシュアルな女性の魅力というものはもっぱら「オタク文化」との関連で現れているという違いがある。
さてまとめると、ポストフェミニズムは、「男女平等はもう達成された」という意識や言説が普及する中で、女性も性別に関係なく努力し、自由、幸福を追求するのが可能でありよいことだという認識や言説を意味している。またそこではヘテロカップルが幸福の単位であることは変わらず、「ガールズ·カルチャー」などポップカルチャーの中でフェミニズム的要素が見られるがそれはジェンダー規範に必ずしも批判的ではないなどの特徴がある。そして私が重視したいのは、ポストフェミニズムにおいては女性の強烈な不安感が埋め込まれているということである。人気ドラマ『逃げ恥」(『逃げるは恥だが役に立つ』)に典型的だが、ポストフェミニスト的女性は、大きな孤独と不安と常に闘っている(菊地、2021)。だがそれは当然である。仕事もキャ
リアも結婚も恋愛も出産もがんばらなきゃいけない。圧力の数も多いし強度も高くどれも社会的なものであるのに、彼女たちにはフェミニズムというシェルターも運動も許されていないのだから。
次に、ネオリペラル·フェミニズムを説明したい。これはポストフェミニズムの一つとしても、あるいは関連する別の潮流としても論じられている。ネオリベフェミとは社会の序列を女性が登ることをフェミニズムの目標とするものである。最近日本でも、女性リーダー、政治家、起業家を増やすべきだという論調が主流になっているがこれもその一つである。そのさいに人数だけでなく様々な事象が数値化されて提示されることも特徴である。そしてある女性の「成功」を、女性個人だけでなく会社や国家全体の利益に結びつける。女性が活躍することで国が救われる、という論理である。
その代表的な論者がシェリル·サンドバーグで、「リーン·イン」(2013)という著書は日本でもよく知られている。彼女はフェイスブックCOOの超エリートである。彼女は女性が大企業でリーダーとなって女性のための改革をすることを主張している。社会学者とも協力して、様々な統計的差別を論拠としてたくさん用いている。ただ、改革するときには好感を得ることを必須としていて、例えば給料値上げをボスに交渉するときに女性差別を指摘してはダメなどとアドバイスしている。つまりフェミニズム運動ではなく、個人の努力によって女性の地位を向上せよという立場である。面白いのは、彼女は若いころフェミニズムを否定していたと書いており、そういう語りがほかの最近のフェミニズム本にもよく出てきている。「私は昔はフェミニストは怖いと思っていたけどでも今は··」というパターンの語りで、これも探ると面白い点だと思われる。
II 日本のネオリベラル·ジェンダー秩序
次に、大きな枠組みとして日本のネオリベラル·ジェンダー秩序について述べたい。マクロピーはポストフェミニズムが形成する秩序(体制regime)としてネオリベラル·ジェンダー秩序という言葉を使っている。日本ではこの秩序をどのようなものとして考えられるかということを紹介したい。ネオリべというのはフェミニズム理論からいうとケアなどの社会的再生産の支援削減、民営化を意味している。その結果、女性の有償·無償労働ともに増加するが、重要なのは、同時に、それを隠すポリティクスが発生する点である。
ネオリベによって社会運動·女性運動は弱体化し、女性の分断が進むが、ポストフェミニズムはその実態を覆い隠す。そして日本では、そのポリティクスに政治が大きく関わっている。
まず、1985年の男女雇用機会均等法で、男女別雇用からコース別雇用へ移行したが、このコース別雇用は男女の雇用差別を不可視化する機能を持っている。実際には女性を下に置く雇用管理をしていながらそれを見えにくくできる。同年に派遣法ができ、年金の3号被保険者制度ができた。これらによって、正規·非正規の雇用形態をめぐるジェンダー構造が確立された。正規·非正規の格差はそのままで女性の中に“競争”が導入されていく。これを筆者は日本のネオリベ化の開始とみている。
次に99年に男女共同参画基本法ができた。これにより政策の方針としてのジェンダー中立が定められるが、「性差別禁止」法ではない。法律前文に「少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化等我が国の社会経済情勢の急速な変化に対応していくため」とあり、男女平等というより国家経済のためという目的が前面に出ている。この後、「男女共同参画」という言葉が普及していき、「フェミニズム=男女共同参画」ともみなされるようになっていく。男女共同参画についてはフェミニズム内でも評価は分かれている。
またこの時点は、バックラッシュとも深く関わっている。90年代終わりから基本法反対運動も含めてバックラッシュが盛り上がるが、自民党という政権与党がバックラッシュの大きな拠点の一つであるのも日本の特徴である。00年代には表面的には沈静化していくがバックラッシュが拡散し、構造化したともいわれている。
私はこの基本法が日本のボストフェミニズムと深く関わっていると考えている。基本法の論理がポストフェミニズム的だからだ。
その後、再チャレンジ政策、一億総活躍政策を経て、2015年に女性活躍推進法ができる。この法律は女性の職業生活における活躍を促進するためのものだが、基本法と比べると驚くほど反対が少なかった。おそらく、この15年の間に、ジェンダーに関して大きな転換があったと思われる。私たちが直面すべきなのはこの転換の意味である。この法により企業に女性活躍の取り組みが義務化され、特に主要なのは女性リーダー·管理職の増加政策である。典型的なネオリベラル·フェミニズムである。企業でバリバリ働き、子育て家事介護も頑張る女性が「輝いている」とされている。男女共同参画に続いて、フェミニズムの塗り替え第二弾「フェミニズム=大企業での女性活躍」が起きたといえるのではないだろうか。
以上のように、ネオリベによる女女格差の拡大を法と政治が確立し、同時に隠蔽している。「男女共同参画」というポストフェミニズムの論理によって男女は「共同」する関係となり、ともに少子化解消、経済活性化に努力すべきこととなった。そして女性活躍がフェミニズムの意味にされ、均等法のコース別雇用と非正規差別による分断はそのままに女性はさらなる労働を求められている。これが私の考える日本のネオリベラル·ジェンダー秩序である。
III「新しいフェミニズム」?ポストフェミニズムの変質
ここでポストフェミニズムの変質ともいうべき現状について考えたい。欧米では2010年代にフェミニズムの可視化が生じる。セレプのフェミニズム、ポップ·カルチャー·フェミニズム、ジェンダーの主流化現象など様々な形でフェミニズムが注目され紹介されるようになった。それを受けてポストフェミニズム論は間違っているのではないかという批判が寄せられるようになる。2017年10月からはハッシュタグ「#MeToo」の運動が拡大し、日本でも同様の状況が生まれる。この「新しいフェミニズム」をどのように考えるかということが現在大きな論点になっている。現在進行中の議論なので本論ではその応答の一つを紹介するだけにとどめたい。
先ほども紹介したギルは「Post-postfeminism?」(Gill,2016)という論文で その最近のフェミニズム報道の例としてロンドンの大衆誌のフェミニズム特集を取り上げている。無料の大衆メディアがフェミニズムを特集するとは画期的に思えるが、実際に見ていくと表紙には「ニーラム·ギル トップ·ガール/わたしの業界では女の方が多く稼いでる」とある。ニーラム·ギルはモデルで、モデル業界では女性の方が男性より報酬が高いと強調している。これはつまり「平等は既に達成された」という認識のパターンの一つである。記事の内容は、「フェミニスト」の内容が不明瞭なままセレプたちがフェミニストを自称し、女性の美や自信を称賛しているとギルは分析している。ギルは現在のフェミニズムプームの中枢で可視化されているのはポストフェミニズム的な感性ではないかと問題提起している。ほかに、有名なフェミニストT シャッ (“This Is What A Feminist Looks Like") が、モーリシャ ス諸島の移民女性の「スウェットショップ(sweatshop、搾取工場)で作られているということがスキャンダルになったこともあった。ギルは、現在の現象が、脱政治化、セレブや文化産業に偏った個人化、白人·富裕層女性の中心化などポストフェミニズムの要素にあてはまるものだとしている。そしてフェミニズムを反フェミニズム、ポストフェミニズム、ミソジニーと一緒に考えることが必要だと主張している。ポストフェミニズム論は時代遅れなどではなく、ポストフェミニズム概念によって現在のフェミニズムをめぐる複雑さや矛盾を明らかにする可能性と必要性があるということである。
つまり、可視化されないものに目を向けることが必要ではないかと私は考えている。可視化されたフェミニズムばかり見ていると実態を取り違えやすい。サラ·バネット·ワイザーは、「ポピュラー·ミソジニー」(Banet, 2018)という言葉を提唱し、バックラッシュのような組織化される動きではなく、より広く拡散したネットワーク上のミソジニーが、ポピュラーフェミニズムに伴走していると論じている。このポピュラー·ミソジニーも可視化されにくいものの一つである。
それでは少しだけ日本の例を見てみたい。まず「朝日新聞」2017年5月24日の記事である。この後朝日はどんどんジェンダー関連記事を増やしていくがその先駆けのようなもので、これが出たとき私はとても複雑な気分になった。海外で「柔らかいフェミニズムが流行っている」と紹介する記事だが、そこではこれまでのフェミニズムが男性と敵対し、おしゃれを否定し、排他的なものとして位置付けられている。逆に新たなフェミニズムは排他的でないこと、意見がぶつかった人を排除しない、男嫌いではない、ハッピーなものとして形容されている。フェミニズムという言葉は踊っているが、その内容はよく分からない、「単に感じのいいもの」でしかないように見える。そして「手垢のついた」フェミニズムが否定され、ブランドと一体化したフェミニズムが打ち出されている。
2例目は2020年3月8日(国際女性デー)の「朝日新開」 'Dear Girls'だが、そもそも Girls として少女へ熱い視線を向けていくという点がポストフェミニズム的である。少女の身体は経済や国家の期待を浴びて、政治化している。また女性役員割合がジェンダーの問題の代表として位置付けられる、世界経済フォーラムのジェンダー·ギャップ·ランキングの強調など、現在支配的な「フェミニズム」的語りのパターンが典型的に表現されている。ジェンダー·ギャップ·ランキングが前提としているのは国家単位の競争である。記事は「世界では、経営陣の構成は性別や人種が多様性に富んでいる方が、投資家から高い評価を得る」としていて、どうしてジャーナリズムが経営的視点に同一花しているのか私にはよく分からない。
またこのところリプロへの新たな関心がまきおこっている。雑誌「with」(講談社)の2020年9月号で、「働くわたし SDGs」というシリーズを組んでいて、「フェムテックで女性の生きやすさ」を得ようと呼びかけている。「6.37兆円(婦人科系疾患での日本女性の損失)」という数字が前面化されているが、これも根拠が明確とは言えない。記事の結論は生理に関する商品やサービスの宣伝である。
同じ雑誌で、「もっと幸せ 卵子凍結 自己投資 起業」などのネオリベ的タームが並び、「社会の状況を変えようとするより、自分の考え方を変えるほうがよっぽど簡単だ」と語られる。女性の身体が「フェムテック」という言葉によりフェミニズム的なレトリックの下で新たに市場(マーケット)開発の対象になっている(大橋、2021)。
ポストフェミニズムの可視化の一方でフェミニズムの保守化の傾向も生まれている。トランスフォビアが強まっているし、セックスワーカーに対する差別も頭著である。廃止主義の立場が様々なレベルで前に出てきている懸念がある。日本では SNSを主要な舞台としているが、背景には構造的な差別があり、おそらく現在、フェミニズムはものすごく複雑な状態になっていると思われる。
IV 99%のためのフェミニズム
最後に99%のためのフェミニズムについて紹介したい。これはポストフェミニズムの中で可視化されにくいフェミニズムの代表のような存在である。2010年代はネオリベラリズムに対する世界的な抵抗の波が続いた。日本で報道されるのは男性が中心の運動が多かったが、女性の運動ももちろん起きている。2016年10月にはポーランドで右派ポピュリスト政権による中絶禁止政策に女性たちが立ち上がっている。これは世界的に影響を与え、各地で続く。アメリカでは2017年1月21日トランプの大統領就任に反対してウィメンズ·マーチが起き、これは日本でも報道された。実はその後すぐ3月8日にはウィメンズ·ストライキが行われているがこれはあまり大きく報道されていない。このウィメンズ·ストライキが世界各地で続いている。大きくは、2018年3月8日スペインが知られている。このウィメンズ·ストライキを理論的に支援するために書かれたのが『99%のためのフェミニズム宣言」で2019年に原書、2020年に日本語版が出版されている。
99%のためのフェミニズムはネオリベラリズムおよびリーン·イン·フェミニズム(リベラル·フェミニズム)との訣別をはっきり主張している。また、人種主義、能力主義、植民地主義、環境破壊などの近年フェミニズムと切り離されて語られる問題とフェミニズムのつながりを取り戻すことを求めている。その最も大きなスローガンは反資本主義である。
ポストフェミニズムの中で不可視化されるフェミニズムの一つが女性たちの集団的運動だが、ウィメンズ·ストライキ(women strike)だったり、ネオリベラリズムに抵抗する動きが見えにくいところではあるが世界的に続けられていて、今後のフェミニズム運動に大きな影響を与えることになるだろう。
今後の方向として、ポストフェミニズムの時期はおそらくしばらく続くだろうから、そのポリティクスを見抜いていくことと同時に、「99%のためのフェミニズム」を一つの手がかりに、現在フェミニズムが考えるべきことを探っていくことが大事だと考えられる。これは社会主義やマルクス主義がフェミニズムにとってどういう意味を持つのかということも改めて問い直している。またナンシー·フレイザーのフェミニズム批判もあり、やはりフェミニズムの意味自体を問い直していくことが必要である。
I 后女权主义和新自由主义者--什么是女权主义?(机翻)
首先,需要对后女权主义理论做一个简单的概述。 在英国和美国,"后女权主义 "一词是在1980年代开始的反弹背景下开始被谈论的:在经历了1970年代活跃的女权运动时期之后,又经历了激烈的保守派的反弹,媒体上关于 "女权主义已经结束 "的说法变得普遍和确立。 这是需要注意的一个非常重要的问题。 这里要注意的第一点是,尽管这是一个常见的误解,但后女权主义理论并不站在那种 "女权主义已经结束 "的意识上。 相反,它是一种女权主义立场,试图批判性地分析这种叙述和态度充斥社会的情况。 这其中最困难的是后女权主义时代的代表和形象。
在后女权主义的早期,有一种模式是将女权主义视为理所当然,同时也否认它。 人们的态度是:"性别平等是对的,但在我们这一代已经实现了。" 最近,这种情况正在发生变化,如何分析这种女权主义的形象正在被讨论。 前提是,我们现在处于一个女权主义不那么明显的时代,这与70年代和80年代有很大不同,当时女权主义在公众眼中被视为一个怪胎,但如果你有机会接触到它,你可以看到面孔并建立一个社区。 女权主义传播得越广,就越难看清来龙去脉,也越容易被人利用来做各种事情。 后女权主义理论试图分析这种缺乏明确性的情况。
安吉拉-麦克罗比的《女权主义的后果》*1是后女权主义理论的代表作。 McRobbie将后女权主义定义为 "一种以新的反女权主义情绪为特征的社会文化状况,与1970年代和1980年代对女权主义成果的反击不同"。 根据McRobbie的说法,"赋权 "和 "选择 "这两个词在波士顿女权主义中被使用,并向更多的个人主义话语转变。 最初,这些由女权主义创造的术语得到了妇女的公共性的支持,但在后女权主义下,通过个人努力可以获得的东西的内涵凸显出来。 这些表面上是女权主义但却被调换的术语在大众媒体、流行文化中被广泛使用,并成为国家政策。 同时,对女权主义的暴力排斥和指责也在蔓延。 它指的是在年轻一代中传播一种形象,即女权主义是俗气的、可耻的,尽管 "性别平等 "被认为是理所当然的。
麦克罗比分析了1990年代和21世纪初在全世界流行的三部电视剧。 这些是《布里奇特-琼斯日记》、《艾莉-米拉普》和《欲望都市》。 所有这些都是在大城市工作的年轻女性的故事,但麦克罗比在其中看到了 "女权主义幽灵 "的存在。 例如,《布里奇特-琼斯日记》的主人公布里奇特-琼斯不断自我贬低,整天减肥失败,工作失误,但她梦想着有一天能遇到并嫁给一个好男人。 然后,观众被布里奇特的幻想逗得哈哈大笑,麦克罗比将其解读为基于 "女权主义 "的规则,即 "现代女性需要独立,不能依赖男性"。 这种女权主义形象是建立在作品中的,观众被鼓励嘲笑布里奇特与该规则的不一致。 当然,我们不知道这是否真的是女权主义,但无论如何,女权主义被认为是以这种方式规范和责备年轻女性的东西。 而普里吉特与这种 "女权主义 "保持距离,享受她的女性魅力,传递性骚扰,并为与男人的浪漫而磨练自己,注意她的生物钟。 就这样,女权主义被埋没了。
我想介绍另一个有代表性的论点。 罗莎琳-吉尔(Gill,2007)将后女权主义定义为一种出现在媒体中的感性,有六个特征。 在后女权主义下,女性气质首先被认为是一种身体资产。 女性气质被认为是女性应该利用的一种资产,而不是生来就有的或社会上的。 其次,它在2000年代以来的文化 "性 "化中传播,女性在社交网站上暴露和展示自己的身体变得很普遍。 第三,它还意味着从妇女的性对象化转变为妇女的主体化。 第四,个人主义已经确立,它说这种行为是好的,因为它们都是基于妇女自己的选择并赋予她们权力。 第五,对性差异的重新确认,即强调妇女的类别,讨论她们与男性的生理差异,基于这些差异的叙述增加,并开发产品和服务。 最后,还有对女权主义的想当然和否定,但女权主义被设定为一种旧观念,而不同的后女权主义形象被赞美。
这些讨论主要是考虑到英美的情况,但我相信它们也完全适用于日本。 特别明显的是 "女孩权力 "的概念。 近年来,日本的年轻女性自愿发展自己的女孩力量,并认为这是提高自己的一件好事(菊池,2019a)。 然而,一个重要的区别是,在日本,性的因素很薄,女性的性吸引力只出现在与 "御宅族文化 "有关的方面。
总而言之,后女权主义指的是在 "性别平等已经实现 "的广泛认识和论述中,妇女不分性别地努力、自由和追求幸福是可能的和好的。 异性伴侣仍然是那里的幸福单位,在流行文化中可以找到女权主义元素,如 "女孩文化",它不一定是对性别规范的批评,还有其他特征。 而我想强调的是,在后女权主义中,女性强烈的不安全感是根深蒂固的。 典型的流行剧《逃跑是可耻的,但有用的》,后女权主义的女性不断在巨大的孤独和焦虑中挣扎(菊池,2021)。 但这并不令人惊讶。 工作,事业。
他们必须在事业、婚姻、爱情和育儿方面努力工作。 压力的数量和强度都很高,而且都是社会性的,但这些妇女却不能得到女权主义的庇护和运动。
接下来,我想解释一下新自由主义-女权主义。 这要么是作为后女权主义之一来讨论,要么是作为另一个相关的趋势来讨论。 新自由主义-女权主义是女权主义的目标,即妇女在社会中的地位攀升。 这是最近在日本成为主流的论点之一,它呼吁增加女性领导人、政治家和企业家的数量。 世界上的妇女人数不仅限于人数,而且还可以用各种因素来量化。 因此,妇女的 "成功 "不仅与妇女个人的利益相关,而且与公司和整个国家的利益相关。 其逻辑是,当妇女活跃起来时,国家就得到了拯救。
谢丽尔-桑德伯格是这一论点的主要倡导者,她的《精益求精》(2013)一书在日本很有名。 她是Facebook的首席运营官,这是一家非常精英的公司。 她倡导女性成为大公司的领导者,为女性做出改变。 她还与社会学家合作,使用了很多不同的统计歧视作为论据。 然而,她建议,在改革时必须获得一种积极的感觉,例如,在向老板谈判加薪时不要指出对妇女的歧视。 换句话说,她的立场不是女权运动的立场,而是认为应该通过个人的努力来提高妇女的地位。 有趣的是,她写道,她年轻时曾经拒绝女权主义,而这样的叙述经常出现在其他最近的女权主义书籍中。 '我曾经认为女权主义者很可怕,但现在--'这是一个叙事模式,也被认为是一个有趣的探索点。
II 日本的新自由主义-性别秩序
接下来,我想把日本的新自由主义-性别秩序作为一个大框架来讨论。 Macropie用新自由主义-性别秩序一词作为后女权主义形成的秩序(政权制度)。 我想介绍一下这种秩序在日本被认为是什么。 在女权主义理论中,Neolibe意味着对社会再生产的支持的减少和私有化,如护理。 其结果是妇女的有偿和无偿工作都增加了,但重要的是,与此同时,出现了隐瞒的政治。
新自由主义削弱了社会运动--妇女运动--并加剧了妇女的分裂,但后女权主义掩盖了这一现实。 而在日本,政治在很大程度上参与了这种政治。
首先,1985年的《平等就业机会法》从基于性别的就业转变为基于课程的就业,其功能是使基于性别的就业歧视变得不可见。 事实上,这让人更难看到妇女在就业管理方面的从属地位。 同年,颁布了《派遣法》,建立了第三类被保险人的养老金计划。 这些都围绕着正式和非正式的就业形式建立了一个性别结构。 正规就业和非正规就业之间的差距仍然没有改变,妇女之间出现了 "竞争"。 这被作者看作是日本新自由主义的开始。
接下来,1999年颁布了《性别平等基本法》。 这部法律将性别中立作为一个政策方向,但它不是一部 "无性别歧视 "的法律。 该法的序言指出,制定该法是为了 "应对日本社会经济状况的快速变化,如出生率下降、人口老龄化和国内经济活动的成熟",这将国民经济的目标而非性别平等放在了首位。 在此之后,"性别平等 "一词开始广泛流传,而 "女权主义=性别平等 "一词也被视为女权主义的一种形式。 即使在女权主义内部,对性别平等的评价也存在分歧。
对《基本法》的反弹始于20世纪90年代末,但执政党自民党是反弹的主要中心之一,这也是日本的特点。 据说它已经扩散并变得更有条理。
我认为,这部基本法与日本的波司登女权主义有着深刻的联系。 这是因为《基本法》的逻辑是后女权主义。
随后,在 "再就业政策 "和 "一亿人行动 "政策之后,2015年颁布了《妇女成功促进法》。 这项法律旨在促进妇女在职业生活中取得成功,但与《基本法》相比,它遇到的反对意见少得令人吃惊。 据推测,在过去的15年里,在性别方面有了重大转变。 我们需要面对的是这种转变的意义。 法律规定,公司必须采取提高妇女地位的举措,特别是一个关键的举措是增加女性领导-管理职位的数量的政策。 这是典型的新自由主义-女权主义。 在公司努力工作并在养育子女、家务和护理方面尽职尽责的妇女被认为是"闪亮的"。 继性别平等之后,我们可以说发生了对女权主义的第二次改写:"女权主义=女性在大公司的成功"。
如上所述,法律和政治已经确立并同时掩盖了新自由主义的妇女与妇女之间差距的扩大。 后女权主义的 "性别平等 "逻辑使男性和女性成为一种 "联合 "关系,双方都应该努力消除不断下降的出生率,振兴经济。 妇女的成功已经成为女权主义的意义,妇女被要求做更多的工作,而《平等机会法》中基于课程的就业和按非定期划分的歧视仍然存在。 这就是我所认为的日本的新自由主义性别秩序。
三、"新女权主义"? 后女权主义的改变
我们现在要考虑目前的状况,这可以称为后女权主义的转变。 在西方,女权主义的可见性产生于2010年代。 女权主义以各种形式被关注和引入,如名人女权主义、流行文化女权主义和性别主流化现象。 作为回应,后女权主义理论开始受到批评,认为它可能是错误的;从2017年10月开始,标签#MeToo运动扩大,在日本形成了类似情况。 如何思考这种 "新女权主义 "是目前讨论的一个主要问题。 由于这是一场持续的辩论,本文将只介绍其中的一个回应。
我在前面提到的吉尔的文章《后女权主义?》(Gill, 2016),讨论了伦敦一家流行杂志的女权主义专题,作为其近期女权主义报道的一个例子。 自由的大众媒体会以女权主义为特色,这似乎是突破性的,但当你真正看到它时,封面上写着 "尼拉姆-吉尔顶级女孩/女性在我的行业中赚更多的钱"。 尼拉姆-吉尔是一名模特,她强调,在模特行业,女性的工资比男性高。 换句话说,这是一种 "平等已经实现 "的认知模式的一部分。 这篇文章的内容不清楚什么是 "女权主义者",吉尔分析说,名人自称是女权主义者,赞扬女性的美丽和自信。 吉尔提出的问题是,在当前的女权主义热潮中,可见的是一种后女权主义的感性。 其他丑闻包括著名的女权主义者T Shack("This Is What A Feminist Looks Like")是在毛里求斯群岛的移民妇女的 "血汗工厂(sweatshop, sweatshop factory)"中制作的。 有了。 Gill认为目前的现象符合后女权主义的要素,如非政治化、名人和文化产业偏向的个人化,以及以白人富裕妇女为中心。 它还认为,女权主义需要与反女权主义、后女权主义和厌女症一起考虑。 后女权主义理论并没有过时,等等,而是有可能也有必要通过后女权主义的概念来揭示围绕当前女权主义的复杂性和矛盾性。
换句话说,我认为有必要看一下不可见的东西。 如果我们只看那些看得见的女权主义,就很容易误解现实。 Sarah Banet-Weiser提出了 "流行的厌女症 "这一术语(Banet,2018),并认为一种更广泛扩散的网络化厌女症,而不是像反击这样的有组织运动,伴随着流行的女权主义。 这种流行的厌女症是另一个难以想象的问题。
现在让我看一下几个日本的例子。 首先是《朝日新闻》2017年5月24日的一篇文章。 当它出现时,我的心情非常复杂,因为它是朝日后来发表的许多与性别有关的文章中的第一篇。 文章介绍了 "软女权主义 "在国外的 "流行",传统的女权主义被定位为敌视男性,否认时尚,具有排斥性。 相反,新女权主义被描述为非排他性的,不排斥那些与之有分歧的人,不仇视男人,而且很快乐。 女权主义这个词被玩弄于股掌之间,但其内容却没有得到很好的理解,似乎 "只是感觉良好"。 而'手忙脚乱'的女权主义正在被拒绝,一种与品牌相结合的女权主义正在被提出。
第二个例子是2020年3月8日(国际妇女节)的'朝日新开'《亲爱的女孩》,它是后女权主义的,因为它首先将热切的目光转向女孩,作为女孩。 女孩的身体被政治化了,沐浴在经济和国家的期望中。 目前,"女权主义 "叙事的主导模式是以强调世界经济论坛的性别差距排名为典型,该排名也将女性高管的比例定位为性别问题的代表。 性别差距的排名是以国家竞争为前提的。 文章说,"在世界各地,如果管理团队的组成具有性别和种族多样性,他们会得到投资者更高的评价",我不知道为什么新闻学要把这与管理学的观点等同起来。
最近,人们对生殖工作也重新产生了兴趣。 杂志《with》(讲谈社)2020年9月号有一个名为 "Working Me SDGs "的系列,呼吁"FemTech让妇女的生活更轻松"。 提出了 "6.37万亿日元(日本妇女因妇科疾病造成的损失)"的数字,但证据同样不明确。 文章最后对与月经有关的产品和服务进行了宣传。
在同一本杂志中,新自由主义的术语,如 "更多的幸福,冷冻卵子,自我投资,创业 "被使用,我们被告知 "改变你的思维方式比试图改变社会条件容易得多"。 女性身体在女权主义的修辞下,被 "女性技术 "这个词新地置于市场(market)的发展之下(Ohashi, 2021)。
在后女权主义日益受到关注的同时,女权主义保守主义的趋势也在出现。 对变性人的恐惧正在加剧,对性工作者的歧视也是头条新闻。 有人担心,废奴主义的立场正在各个层面上凸显出来。 在日本,社交网站是主要的舞台,但背景是结构性歧视,也许女权主义目前正处于巨大的复杂状态。
IV 99%的人的女权主义
最后,我想介绍一下99%的人的女权主义。 它代表了一种在后女权主义中不太明显的女权主义:2010年代,全球持续掀起了抵制新自由主义的浪潮。 虽然日本报道的大多数运动都是男性主导的,但当然也有女性运动:2016年10月,波兰的女性站起来反对右翼民粹主义政府的禁止堕胎政策。 这已经产生了全球性的影响,并在世界许多地方继续。 在美国,2017年1月21日发生了反对特朗普担任总统的妇女游行,日本对此进行了报道。 事实上,不久之后的3月8日就发生了一次妇女罢工,但这并没有被广泛报道。 妇女的罢工在世界各地继续进行。 已知的主要例子是2018年3月8日的西班牙。 99%的女权主义宣言是为了在理论上支持这次妇女罢工而写的,原书将于2019年出版,日文版将于2020年出版。
99%的女权主义明确主张与新自由主义和精益求精的女权主义(自由女权主义)决裂。 它还试图将女权主义与近年来被孤立于女权主义之外讨论的问题重新联系起来,如种族主义、能力主义、殖民主义和环境破坏。 它最重要的口号是反资本主义。
后女权主义的隐蔽性之一是妇女的集体运动,如妇女罢工和对新自由主义的抵抗,这种运动在全世界范围内继续进行,尽管在不太明显的地方,这将对未来的女权主义运动产生重大影响。 这将对未来的女权运动产生重大影响。
就未来的方向而言,后女权主义时期可能会持续一段时间,所以必须看透它的政治,同时探索女权主义目前应该思考的问题,以"99%的女权主义 "作为线索。 这也重新审视了社会主义和马克思主义对女权主义的意义。 还有南希-弗雷泽对女权主义的批判,仍有必要对女权主义本身的意义提出质疑。
『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』 (英: "Lean In: Women, Work, and the Will to Lead")
『99%のためのフェミニズム』:
1%の富裕層ではなく、「99%の私たち」のために、性差別・人種主義・環境破壊のない社会を。いまや世界中に拡がる女性たちの運動とも共鳴しながら、研究の第一線でも活躍するジェンダー学者たちが、性の抑圧をもたらす現代資本主義の終焉を呼びかける。分断を正確に認識することで、私たちはまだ連帯できる。
「99%のためのフェミニズムは反資本主義をうたう不断のフェミニズムである──平等を勝ち取らないかぎり同等では満足せず、公正を勝ち取らないかぎり空虚な法的権利には満足せず、個人の自由がすべての人々の自由と共にあることが確証されないかぎり、私たちは決して既存の民主主義には満足しない」(本文より)