村野四郎《豫感》
豫感 小序 戦争は、べつに私の詩をもえたたせなかった。戦後の平和も、とくべつにそれを燃えあがらせることはなかった。 私の詩は、しだいに沈降し、冷却した。これは年齢のためでもなく、絶望のためでもない。この詩的思考の方向は、私の詩が負うた宿命であるとも考えられる。 けれども事実、この世界的動乱は、いよいよ私の詩の方向に速度をあたえたということはできる。それは、もはや現世に信じうべき何ものもないことをおしえた。たった一つの拠るべき対象をのぞいては――。 そして、それを追求するときに生ずる摩擦の光は、詩の上にもある種の魅力をうつしだすことを私に豫感させた。こん後、この唯一のものに向かって私はとこまで、その存在論的な斜面を沈下していくことができるだろう。 この詩集「豫感」は、私の第五詩集につづくこの曲線の最もあたらしい部分を示すものである。 冬深む 野川に かれ草折れ ながく浸り そこを渉りくる人かげもなく 杉の梢をみあげれば ぼろぼろな時間が堕ちてくる 陽ざしは 苔の上に たちまち消え たえて私の膝にとどくこともなかった さくばくたる庭に対い 寒気の空洞を背に ひとり けんらんたる論理の書をひらく ああ かつて葡萄のごとく私を搾(しぼ)るもの また私から滴る血をうけるもの すべては すでに遠く 声もなく 山茶花(さざんか)さき ちり しばし 冬深む 幻の田園 現実は 雪をかむって とおくにいた 凍る菜園 落葉のまじる 霜どけみち ああ 血の色をした 少年期の冬の恋よ 額(ひたい)のうえに こがね虫のごとく 冬日を匍わせ 泥のついた洋杖(すてっき)を ついていく みちを曲れば こわれた垣があり 垣のむこうに 枯れのこる菊のはな咲き ふと 死がかがやく どこか遠いところで 大砲がなっている 展開 景象が徐々に 私の背後にあつまる 路は大きく曲って 草に入り 傲然(ごうぜん)と枯れた向日葵(ひまわり)のあちらに やさしくひらけてくる平原 パセリの森 この平板な俎(まないた)の上に すべては まだ料理されない 従順な事物の嵩(かさ) 秋の日にえがく 空の洋杖に 雲がしたしく寄ってくる それは敢(あえ)てかがやかないが しかも きょうはじつに間近く 明るい秋 おまえは何か 草たちが私をとがめる 石たちも そう訊(き)くように つめたく私に身がまえる 私にとって すべては見しらぬ人のようだ けれども 私は人ではない 愛もなく なやみもなく 私の存在は ひとり生きる論理によって ただ 偶然のごとくあるのみだ こう つぶやいて 黒い草の実を分けて現れ どこかに とおく へル服の匂をかぐ 秋の日は まさに 神の殺(や)られた日のごとく 悲哀は万物を はっきりと見せ 無限の空虚にかがやくのだった 夜の中から 森かげが徐々にもりあがり 樹々がふるえる枝をのばして しずかに夜の位置をしめる すると 眼に見えない風の中で 木の葉が まだ火のつかぬ言葉のように あなたの肩に触れて落ちる ああ 夢も叫びも死ぬ夜よ 洗われた事物の骨組よ あなたも謙讓な一つの物象 もはや あなたの詩集は役立たない まるで死んだ蝶のようだ 詩人よ わかいひとよ さあ あなたの魂を あだかも懸崖の菊のように 黒い虚空にかかげなさい そこから あなたは見るだろう とおくに 朝を 大きい夜の胸のあちらに いち早く 新しい血がながれるのを 詩法 前面から 時間がはいってきて 僕の体内にわだかまる そして それはうごめく この無限に長い条虫 僕の憔悴はここから来るか 僕は詩を粉にしてのむ すると 尻尾のさきが切れて少し瀉(くだ)った 背中のうしろの方で 樹々が揺れる 光をもみあう樹の葉たちの若い声がする 前庭 一株の古木が 亡霊のように土から立っている 惨澹(さんたん)たる歳月の中から 朽ちた影をひいて 幹は 天にいかっているようだ 私は それを 凍った正月の座から見ている すると 未来とおぼしいものが 飛沫をあげて 私の面上にふきつけてくる 時劫のなかに梅は失せず 花は まだ遠い 夏野 夏野は まるで 絵具皿のようだった ここをすぎ 私は遠くきた そして ひっそりした村の 無花果の葉のかげのある 固い土の上にいこう 思想は私からわいて 風に乾いた ひろげた胸にひるがえる ああ まだわかいシャツ 思い出は とおく 陽炎のむこうで煮えていた 歌 ここは生活の湖沼地帯 どろんとした青みどろ くさった時間がよどむ暗鬱な沼地だ ここの瘴気(しょうき)が私の顔いろをわるくし 私の疾患は いよいよ重くなる ここの岸べを さまようて ふと水面を覗く ああ 何という蓬々たる私の面影であろう 黄昏の郷愁は 嘔吐のように胸につきあげてくる おもわず水面に吐き出す おびただしい 熱いももの だが それを食う魚さえ住まぬ黒い水 月がふるえながら この上をわたり 小鳥たちが声をのんで むこうの夜へおちていく どこかで ちょろちょろと 明日へおちこむ水音がする 私の吐瀉物も やがて遠く 暗黒の海の方へと運ばれていくであろう ああ 私ののちに この界隈(かいわい)に佇(たたず)むものは誰だ この黄昏に病むものは誰であろう 昏れる田園 太ったダリアの花が しろい空にかたむいている そして 貨幣に換えられた 葡萄の木の亡骸に ざらざらと荒い風がふく 田園の景象の 分娩につづく犬きい憔悴にかこまれて あちらを向いて立っている あの くろい肖像は誰だ 農具にもたれた 無智の 悖徳(はいとく)の いやらしい木偶(でく) その固い頭が いつまでも空に暮れのこっている ああ もう 歌も祈も涸れはてた まもなく大地は くろい眠りにおちるだろう 昏れるまえ 嘔吐のように波だちながら 青い石 平和の日は花のように明るかった 私はよく この広場をよぎり 音楽堂のほとりの 木かげの石に腰を下ろした あの大きな青い石 私はきょう 戦争の襤褸(ぼろ)をひき あつい瓦礫(がれき)の街をこえてきて 乞食のように この石の上にやすむ 私の胸は竈(かまど)のごとく 熱い飢にいぶっている それだのに 石はむかしのごとく 青く苔むし 邃(ふか)い樹陰に沈んで しずかに私の下に横っていた ああ 青い大きな石 歌 丘にも 道にも 荆棘が生いしげっている けれども もう空とぶすべもない 青年たちよ 裸足で歩いていこう あなたたちの通った道へ 血をながしていこう 歌いながらいけば くるしみも かなしみも なぐさめとなるだろう あなたたちの背後から まもなく 愛らしい弟たちがくるだろう そして あなたの歌ごえは 熱い液体のように 彼らの頭の中をかけまわるだろう 青年たちよ 血をながして しずかな地球のかげへ歩いていこう 新年 盃の中には 液体がのこっている 夜はまだ終ろうとしない それだのに もう ことあたらしい梅の枝 福寿草のかなしい黄金色(こんじき) この訝しい事物を まじまじと 私は見ている まるで漂着者のように—— すると いつか ゆえしらぬ悲哀が 氷山のように私の背後をとざす その上を やがて日の出が 血の色をして染めてくるのだ 夜あらし 私は ふと深夜のペンを止める どこかで人ごえがした 海戦に果てたはずの弟の口笛もきいたようだ しかし それは やはり私の空耳であったろう 外の面には闇をどよもして 夜あらしが吹きつのっている おどりくるう庭樹のざわめき 時おり はげしく 風が墻の竹をふき鳴らしている この季節風は 南方の島々をわたり 私たちの世界の あらゆる傷口を吹いて やがて大陸に上り とおく西比利亜(シベリア)の広袤(こうぼう)へかけ去るであろう それにしても この騒擾の中には たしかに 多くのこえごえがあっていいはずだ たしかに 言いがたい音信があっていいのではないか 私は凝乎(じつ)と耳をすます すると突然 けたたましく 廃(すた)れた温室の扉のたおれる音にまじって 砕けちるガラスの悲鳴がきこえた 私は竦然(しょうぜん)として 思わずペンをとりおとす 眼にみえぬ気流が私のまわりを渦巻いてすぎる やがて 私はひとり私を嗤(わら)い ふたたび 新しい詩論のペンをとる 明日は きっと 吹きさらされた朝空の中で 前額が痛むほど白く ぱちぱちと 梅がひらくだろう 春の祭 ひえびえとした桃の花の翳(かげ) ほのゆれる紙燭のかげの かなしい綺羅(きら)よ あなたたちは なぜそのように衰えている 瘦せた手にとる笙と笛 泣ける表情 とおいい伝習のなかの くるしみの人よ あなたたちの憂いはどこから来る ひそかな忍苦の歌ごえが 幽閉の凍る歌ごえが ほそぼそ 耳にきこえてくる おもたい夜の とばりのかげから 暮春抒情 夕空にさくらがさいている いやらしい肉食の 追想の反吐(へど) 私はどこも悪くないのに 胸はなぜ こんなに息ぐるしい この前額の熱はどこからくる 顔へかかる髪毛(かみのけ)のように 夜へなだれる花のかげに みじめな灯がちらちらしている 蕁麻の都 いずこにも煤煙は見えざれども 真夏日の青天は ふかき憂悶に灼(や)けたり 蓬々たる蕁麻こげちぢれ 陽は朦気(もうき)のなかに遠(とお)く その方向をうしないて漂う 風はまったく死したるに 砂塵まいたち しばしば 道(みち)行くわが影を奪えり このとき わが背/脊後より 地ひびきたてて疾走する一台のトラックあり おびただしき浮浪児の群を積みたる いま いずこへか走りさらんとす その車上 青く腫(ふくら)めるもの 盲いたるもの 肩胛(けんこう)の露出せるもの 膝関節とびだせるもの 毛髪ぬけ堕ち 顱頂(ろちょう)禿げたるもの 歯をむけるもの 白き舌だせるもの うち重なり 泣き 嗤い 喚きて空中にあふれたり ああ これらことごとく戦争の悪の瘡蓋(かさぶた) 敗戦のやわらかき蛆(うじ)なり いま いずこにか運ばれ行かんとす ああ 彼ら果して何処の家に帰らんとするか この熱き路上に わが喘ぎもまた犬のごとく いかで心むなしく見すごし得べきや 地 身ぶるい 石 叫(さけ)ぶ街上 れきろくと軋める車輪にのりて この青く わかき妖怪のむれ 忽ちにして とおく かの急坂をかけあがり たかく夏雲の彼方に昇りゆけり 豫感・拾遺 空の家族 考えている雲 話しあっている雲 いそいで用達しに出かける雲 明るい空の家族たちよ democratic な光の種族よ どんな社会がそこにあるのか どんな政治家がいるのだろうか そこでときどき 彼らの影が きょうの僕らの さむいボンノクボの上に墜ちる たたかいの終り 太陽がしずかに 私の体に輸血している 頭髪をかくと バラバラ私から脱落するものがある なんてながい病院生活だったろう 私のしぐさを 紅葉した矮(ひく)い庭樹たちが 女学生たちのように ならんで見ている 「いやあ ねえ」というように 「可哀相 ねえ」と ささやき合うように 彼女たちの きれいな眸(ひとみ)のなかで にわかに官能がほぐれ 私の耳は はじめて赤くなる 少年の日のように