「薄化粧」原型事件
《薄化妆》
【別子銅山妻子殺人・ダイナマイト殺傷事件】 1946年6月に復員してから2か月後、愛媛県新居浜市の住友銅山別子鉱業所で働き始めたN・Kは、妻と長男、戦後に生まれた長女と暮らしていた。しかし1948年10月には、選鉱場で働く寡婦を愛人にしていた。しかし二人の噂は広まり、妻と愛人が喧嘩をするようになった。Nは給料の内必要な金だけを妻に渡していたが、1949年1月25日、腹に据えかねた妻(37)は家を出て行くから金を寄こせと言い、N(40)と喧嘩になった。妻は炊事場から薪割り用の手斧を持ち出し、Nが買った30,000円近いラジオを叩き割ろうとしたので、Nは手斧をもぎ取り、妻の頭に何度もたたきつけ、さらに紐で絞殺した。邪魔者は殺せと、寝ていた長女(1)の頭を手斧で殴って殺害した。さらに床下に穴を掘り、二人を埋めた。小学一年生の長男(6)を殺すことはできず、周囲には妻が離婚して娘を連れて出て行ったと言いふらした。愛人と暮らすようになったが、長男は邪魔になる。2月13日、父親の初七日に長男を連れて行き、兄の家に預けるとだまして連れ出し、実家のある高知県馬追村へ行く途中の山の中で、手拭いで首を絞めて殺害。遺体を放置した。遺体は1950年3月に発見された。 愛人Tは肋膜を患って入院する。Nは、同じ社宅に住む人妻H(29)に目を付けて口説き始め、金に困る相手に金を貸すも、Hはなかなか落ちなかった。8月にはTが退院するも、病気を理由に性交渉は拒まれた。1950年9月、Nはダイナマイトを7本盗み出す。家の床下からは腐臭がし、DDTをまいて誤魔化す状況であり、普段はTの家で暮らしていた。Hはなかなか落ちず、さらにHが妊娠したことが分かり、自分に惚れていると思ったのは気のせいだということがわかってNは逆恨み。1951年10月13日、Nはダイナマイトを人妻の家の戸の隙間に差し込み、爆発させた。H子の実妹が死亡、実弟(19)が重傷を負った。H子や実母、実子、連れ子の4人は無事だった。H子の夫はたまたま当日、胃痙攣で入院していたことから実は仮病ではなかったかと警察に疑われ、21日には警察に任意同行された。しかし警察は11月8日、1950年末に行商の女を強姦した容疑でNを連れて行く。しかし本命はダイナマイト殺人容疑だった。9日、家に帰らせてくれたら白状すると警官同行で家に行き、Tを呼び出す隙に剃刀をズボンに隠した。Tに別れを告げ、署に戻っていったん留置所に戻った際、剃刀を首筋に当て、自殺を図るも頸動脈をそれていたため、命は無事だった。10日、血だらけになった衣類を取り返させるため、捜査員が自宅に立ち寄ると、女物や子供の衣類、下着を見つけ、不審を抱く。実家に帰ったと聞いていたので、Tは青ざめ、知っていることをすべて話す。翌日、捜査員は床下から妻と長女の遺体を発見。また、1年前に発見された遺体の身許も長男とわかり、警察はその事実をNに突きつけ、Nは犯行を自供した。 1952年10月23日、Nは西条刑務支所を脱獄。監房の床板を切り破り、穴を掘って外へ出たものだった。その後はトンネルやダムなどの工事現場、11県を転々とする。警察は全国に手配をし、1960年9月、別名を名乗っていた人物がNにそっくりだという情報を得る。捜査の結果、高知の現場にいることが判明。9月19日、Nは逮捕され、翌日、愛媛まで押送された。 1961年2月10日、松山地裁で懲役15年判決。求刑は死刑だったが、ダイナマイト事件が証拠不十分で無罪となった。1962年1月31日、ダイナマイト事件も有罪となり、無期懲役判決。減軽理由は逃亡中の約8年間、飯場を転々としながら比較的真面目に働いていたことと、その間は苦労を重ねていたことに免じてとのことらしい。1962年10月26日、被告側上告棄却、無期懲役確定。
