读《日本の美意識》(宮元健次)——(前言与目录)
今天去复印了周五“日本文论与批评”上课要的书——日文原著的《日本の美意識》(宮元健次)。
老师让我们看前言和序章,然后写感想文。。。结果翻开第一页就是“靖国神社”。。。有点抵触情绪。。。不过还是读了。
刚看完前言,顺带打了一遍,发上来共享一下。
----------------------------------------我是原文的分割线--------------------------------------
はじめに 靖国神社と桜
毎年、気象庁は桜の開花時期を発表する。東京では、靖国神社の三本のソメイヨシノの観測によって、桜の開花時期が決まるという。
東京管区気象台が観測しているのは一四種の植物だが、気象庁の敷地以外でデータを収集するのは、わずかに三種、桜とイチョウ、そしてシダレ柳のみである。イチョウとシダレ柳は気象庁の敷地から一本通りを隔てただけの清麿公園で観測する。
ところがなぜか、桜だけは気象庁から一?六キロも離れた靖国神社で観測されているのである。清麿公園からわずか200メートルの地には、見事な桜で知られる皇居の平川門があり、その中はまさに桜の宝庫だ。にもかかわらず、桜だけはどうしても靖国神社で観測されなければならないのである。東京管区気象台によれば、靖国神社の桜が開花基準になった理由については、記録がなく不明であるという。
靖国神社は、いうまでもなく明治以降戦死した軍人などを神として祀った社である。歴代首相の参拝問題によってその名を知られる。
靖国神社の前身は、1962年、京都?東山に幕末の動乱の戦死者を祀った招魂社である。招魂社はその後、全国138社にふくれ上がった。1868年には江戸城で官軍戦没者の招魂祭が行われ、翌年、明治天皇によって東京九段に東京招魂社が建てられ、1897年、靖国神社と改名された。
靖国神社には現在、約246万500柱の英霊が祀られているが、桜は創建時より植え始められている。現在では春になると800本もの桜が咲き誇る。幾多の戦争のたびに、生き残った人たちが亡き戦友を弔うために植えた木々が生長したものである。
それらの桜の幹には、部隊名や氏名を書いた名札が縛り付けられている。桜が満開となる数日間、境内は花見客に開放され、英霊をしのびつけている。
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと 散りましょ 国のため
(中略)
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう
これは軍歌「同期の桜」の歌詞である。この歌がつくられたのは第二次大戦の始まった翌年。原曲「二輪の桜」の歌詞と題名が、軍の命により作詞家?西條八十の歌詞を元として、ある海軍士官によってアレンジされた。
この桜の美意識が、戦争に利用された。「お国のため」に、桜の花のように見事に散り、靖国神社で咲いて会おう―というわけだ。桜が美しく散るように、戦死は「散華」と呼ばれた。真珠湾攻撃のための特攻隊を生んだ海軍の記章は桜をモチーフとした。山桜隊、初桜隊、葉桜隊など、特攻隊の部隊名にも、すべて桜が用いられたという。
つまり、毎年、靖国神社の桜におって日本の首都?東京の桜の開花時期が決定する背景には、日本の美意識と結びついて散っていった英霊たちの鎮魂が見え隠れしているといえないだろうか。
しかし、ここで改めて考えておかなければならないことがある。それは、そもそも、なぜ、桜が日本の美意識の根源となったのか、という点である。
今日、桜は日本の国花になっていることからも分かる通り、日本の美を表す「花鳥風月」の象徴的存在である。だが、桜の代名詞となっているソメイヨシノは、品種交配によってわずか100年前に生み出された花にすぎない。
また、平安時代以前は、桜が歌に詠まれることはほとんどなく、もっぱら梅が詠まれた。いったい、日本人はいつから桜を自らの美と認識するようになったのだろうか。私たちは、その多くを知らない。
そして、私たちは時に桜を称して「美しい」あるいは「きれい」という言葉を口にするが、美しいときれいはどう違うのかを理解して使っている人はいるだろうか。
一方、「日本の美」というフレーズから、すぐに「侘び?さび」を連想する人も少なくない。しかし、その成り立ちや意味を明快に答えることができる人は、いったいどれだけいるだろうか。
近年、日本の能が世界文化遺産の無形遺産として選ばれ、能の美意識である「幽玄」が世界的評価を受けつつある。同時に、日本のサブカルチャーが世界中でブームを巻き起こし、「かわいい」という新しい美の概念が世界各国で広く浸透しつつある。
こうした中、私たち日本人は、いま、改めて自らの美意識を確認すべき時期がきているのではないだろうか。
日本人の根本的な美意識である「優美」とは何か。
「幽玄」あるいは「侘び?さび」「きれい」「かわいい」とは、いったいどんな美意識なのか。
日本人のこころのふるさとに、しばし耳を澄ましてみよう。
----------------------------------------我是原文的分割线--------------------------------------
以上,就是前言全文。
粗略做了个翻译(可能有错,而且语句不是很通顺,因为有些地方我也无法理解。)
----------------------------------------我是翻译的分割线--------------------------------------
前言 靖国神社与樱花
每年气象厅都会发布樱花开花的时间。据说在东京是通过观测靖国神社三株樱花开测定樱花的开花时间的。
在东京辖区的气象台观测的植物有十四种,而在气象厅用地之外收集数据的植物仅有三种。樱花、银杏以及垂柳。银杏和垂柳就在气象厅外相隔仅一条大街的清麻吕公园观测。
可是不知为何,只有樱花要在距离气象厅1-6千米的靖国神社进行观测。在距离清麻吕公园仅200米的地方,有着因漂亮的樱花而知名的皇居的平川门,那里面可谓樱花的宝库。尽管如此,樱花却无论如何要在靖国神社观测。东京辖区气象台里也没有记录以靖国神社的樱花开花为准的相关理由,原因不明。
靖国神社就是明治以来战死的军人等被作为神灵祭祀的神社。因为历代首相的参拜问题而为人所周知。
靖国神社的前身,是为祭祀1962年在京都东山因幕末动乱战死的人而作的招魂社。这之后,全国又增加了138社。1868年在江户城举行了对官兵战死者的招魂祭祀,第二年,明治天皇下令在东京九段建立了东京招魂社,1897年改名为靖国神社。
现在在靖国神社中祭祀着大约2460500块灵位,而樱花树是在创建时就开始种植。而今入春将有800多株樱花怒放。这些都是那些经历几多战争,劫后余生的人们为凭吊已逝的战友而种下的。
这些樱花树的树干上,缚着写有部队名称和姓名的名牌。每到樱花开放的那几日,神社会开放给赏花的人们怀念逝者。
你我是同期的樱花 同在兵校的庭院里盛放
花若盛放了 就要有凋谢的觉悟
壮观地凋谢吧 为了国家
(中间省略)
你我是同期的樱花 四散零落了
就在花都的靖国神社
春日树梢上 盛放相会吧
这是军歌《同期的樱花》的歌词。这首歌作成于第二次世界大战开战第二年。原曲的《两朵樱花》的歌词和名字,是作词家西条八十受命所做,由某个海军士官编曲而成的。
这里对于樱花的审美观,被战争所利用了。所谓的“为了国家”,像花一样壮烈地散去,在靖国神社盛放相会。犹如樱花美丽的散落般,战死被称为“散华”。珍珠港事件时成立特攻队的海军,徽章就以樱花为主体。特攻队的名称,诸如山樱队、初樱队、叶樱队等等,全都用了樱花的名字。
总之,每年以靖国神社的樱花为主决定日本首都东京的樱花开花时间,是否可以说是为了安抚那些与日本审美观相结合而散落的魂灵们呢?
但是,还有需要重新思考的地方,就是究竟为何樱花会成为日本审美观的根源,这一点。
从如今樱花作为日本的国花这点也可了解,表现了日本的美的“花鸟风月”的象征性存在。然而,作为樱花代名词的染井吉野樱,只不过是经品种杂交,于距今仅100年前才产生的花。
而且,在平安时代以前,咏樱的歌几乎没有,只有咏梅的。到底日本人是从什么时候开始将樱花作为自己的美来认识的呢?对此我们还有许多未知数。
而且,虽然我们有时称樱花美丽或者漂亮,是否有人在理解美丽和漂亮的区别的前提下使用这两个词呢?
另外,说起“日本之美”这个熟语,能立刻联想到“孤独、寂寞”的人也不少。但是,能够明确回答它的起源以及意义的人又有几人呢?
近年,日本的能剧获选世界文化遗产的无形遗产,作为能的审美观的“余韵(幽玄)”不断受到世界的评价。同时,日本的从属文化也在世界掀起热潮,所谓“可爱的”这种新的美的概念不断在世界各国广泛扩散着。
如此,我们日本人是否到了应该从新认知自己的审美观的时候?
作为日本人最根本的审美观的“优美”是什么?
“余韵(幽玄)”又或者“孤寂”、“漂亮”、“可爱”这些,究竟是怎么样一种审美观呢?
一起在日本人的心之故乡侧耳倾听一番吧。
----------------------------------------我是翻译的分割线--------------------------------------
读到后面,和靖国神社没什么关系了。
突然觉得很悲哀。那些战死的人们,无论是正义还是非正义,无论是侵略还是被侵略,我想人们应该首先承认,他们全部都是战争的牺牲品。应该责罚的是那些发起战争的上位者,那些无视人道,被任性罪恶面蒙蔽了双眼的人们,而不是战争的牺牲品。可是那些应该负起责任的人,却对外敷衍,对内欺瞒。
回归原文主题,审美观这种东西,究竟是什么呢?看作者提出这样的疑问。原书目录的序章里,列举了日本本土的歌人西行、俳句作者松尾芭蕉以及德国建筑家Bruno Taut三个人的故事。从第二章开始,依次写了“优美”、“余韵(幽玄)”、“孤寂”、“漂亮”几种审美观。终章则提到近代审美观,关于“日本美的输出”、“文明开化与无神论”等。最后列出了观赏红叶的名胜(在日本,春赏樱花秋赏枫)。
有一些些期待后文了。
老师让我们看前言和序章,然后写感想文。。。结果翻开第一页就是“靖国神社”。。。有点抵触情绪。。。不过还是读了。
刚看完前言,顺带打了一遍,发上来共享一下。
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はじめに 靖国神社と桜
毎年、気象庁は桜の開花時期を発表する。東京では、靖国神社の三本のソメイヨシノの観測によって、桜の開花時期が決まるという。
東京管区気象台が観測しているのは一四種の植物だが、気象庁の敷地以外でデータを収集するのは、わずかに三種、桜とイチョウ、そしてシダレ柳のみである。イチョウとシダレ柳は気象庁の敷地から一本通りを隔てただけの清麿公園で観測する。
ところがなぜか、桜だけは気象庁から一?六キロも離れた靖国神社で観測されているのである。清麿公園からわずか200メートルの地には、見事な桜で知られる皇居の平川門があり、その中はまさに桜の宝庫だ。にもかかわらず、桜だけはどうしても靖国神社で観測されなければならないのである。東京管区気象台によれば、靖国神社の桜が開花基準になった理由については、記録がなく不明であるという。
靖国神社は、いうまでもなく明治以降戦死した軍人などを神として祀った社である。歴代首相の参拝問題によってその名を知られる。
靖国神社の前身は、1962年、京都?東山に幕末の動乱の戦死者を祀った招魂社である。招魂社はその後、全国138社にふくれ上がった。1868年には江戸城で官軍戦没者の招魂祭が行われ、翌年、明治天皇によって東京九段に東京招魂社が建てられ、1897年、靖国神社と改名された。
靖国神社には現在、約246万500柱の英霊が祀られているが、桜は創建時より植え始められている。現在では春になると800本もの桜が咲き誇る。幾多の戦争のたびに、生き残った人たちが亡き戦友を弔うために植えた木々が生長したものである。
それらの桜の幹には、部隊名や氏名を書いた名札が縛り付けられている。桜が満開となる数日間、境内は花見客に開放され、英霊をしのびつけている。
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと 散りましょ 国のため
(中略)
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう
これは軍歌「同期の桜」の歌詞である。この歌がつくられたのは第二次大戦の始まった翌年。原曲「二輪の桜」の歌詞と題名が、軍の命により作詞家?西條八十の歌詞を元として、ある海軍士官によってアレンジされた。
この桜の美意識が、戦争に利用された。「お国のため」に、桜の花のように見事に散り、靖国神社で咲いて会おう―というわけだ。桜が美しく散るように、戦死は「散華」と呼ばれた。真珠湾攻撃のための特攻隊を生んだ海軍の記章は桜をモチーフとした。山桜隊、初桜隊、葉桜隊など、特攻隊の部隊名にも、すべて桜が用いられたという。
つまり、毎年、靖国神社の桜におって日本の首都?東京の桜の開花時期が決定する背景には、日本の美意識と結びついて散っていった英霊たちの鎮魂が見え隠れしているといえないだろうか。
しかし、ここで改めて考えておかなければならないことがある。それは、そもそも、なぜ、桜が日本の美意識の根源となったのか、という点である。
今日、桜は日本の国花になっていることからも分かる通り、日本の美を表す「花鳥風月」の象徴的存在である。だが、桜の代名詞となっているソメイヨシノは、品種交配によってわずか100年前に生み出された花にすぎない。
また、平安時代以前は、桜が歌に詠まれることはほとんどなく、もっぱら梅が詠まれた。いったい、日本人はいつから桜を自らの美と認識するようになったのだろうか。私たちは、その多くを知らない。
そして、私たちは時に桜を称して「美しい」あるいは「きれい」という言葉を口にするが、美しいときれいはどう違うのかを理解して使っている人はいるだろうか。
一方、「日本の美」というフレーズから、すぐに「侘び?さび」を連想する人も少なくない。しかし、その成り立ちや意味を明快に答えることができる人は、いったいどれだけいるだろうか。
近年、日本の能が世界文化遺産の無形遺産として選ばれ、能の美意識である「幽玄」が世界的評価を受けつつある。同時に、日本のサブカルチャーが世界中でブームを巻き起こし、「かわいい」という新しい美の概念が世界各国で広く浸透しつつある。
こうした中、私たち日本人は、いま、改めて自らの美意識を確認すべき時期がきているのではないだろうか。
日本人の根本的な美意識である「優美」とは何か。
「幽玄」あるいは「侘び?さび」「きれい」「かわいい」とは、いったいどんな美意識なのか。
日本人のこころのふるさとに、しばし耳を澄ましてみよう。
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以上,就是前言全文。
粗略做了个翻译(可能有错,而且语句不是很通顺,因为有些地方我也无法理解。)
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前言 靖国神社与樱花
每年气象厅都会发布樱花开花的时间。据说在东京是通过观测靖国神社三株樱花开测定樱花的开花时间的。
在东京辖区的气象台观测的植物有十四种,而在气象厅用地之外收集数据的植物仅有三种。樱花、银杏以及垂柳。银杏和垂柳就在气象厅外相隔仅一条大街的清麻吕公园观测。
可是不知为何,只有樱花要在距离气象厅1-6千米的靖国神社进行观测。在距离清麻吕公园仅200米的地方,有着因漂亮的樱花而知名的皇居的平川门,那里面可谓樱花的宝库。尽管如此,樱花却无论如何要在靖国神社观测。东京辖区气象台里也没有记录以靖国神社的樱花开花为准的相关理由,原因不明。
靖国神社就是明治以来战死的军人等被作为神灵祭祀的神社。因为历代首相的参拜问题而为人所周知。
靖国神社的前身,是为祭祀1962年在京都东山因幕末动乱战死的人而作的招魂社。这之后,全国又增加了138社。1868年在江户城举行了对官兵战死者的招魂祭祀,第二年,明治天皇下令在东京九段建立了东京招魂社,1897年改名为靖国神社。
现在在靖国神社中祭祀着大约2460500块灵位,而樱花树是在创建时就开始种植。而今入春将有800多株樱花怒放。这些都是那些经历几多战争,劫后余生的人们为凭吊已逝的战友而种下的。
这些樱花树的树干上,缚着写有部队名称和姓名的名牌。每到樱花开放的那几日,神社会开放给赏花的人们怀念逝者。
你我是同期的樱花 同在兵校的庭院里盛放
花若盛放了 就要有凋谢的觉悟
壮观地凋谢吧 为了国家
(中间省略)
你我是同期的樱花 四散零落了
就在花都的靖国神社
春日树梢上 盛放相会吧
这是军歌《同期的樱花》的歌词。这首歌作成于第二次世界大战开战第二年。原曲的《两朵樱花》的歌词和名字,是作词家西条八十受命所做,由某个海军士官编曲而成的。
这里对于樱花的审美观,被战争所利用了。所谓的“为了国家”,像花一样壮烈地散去,在靖国神社盛放相会。犹如樱花美丽的散落般,战死被称为“散华”。珍珠港事件时成立特攻队的海军,徽章就以樱花为主体。特攻队的名称,诸如山樱队、初樱队、叶樱队等等,全都用了樱花的名字。
总之,每年以靖国神社的樱花为主决定日本首都东京的樱花开花时间,是否可以说是为了安抚那些与日本审美观相结合而散落的魂灵们呢?
但是,还有需要重新思考的地方,就是究竟为何樱花会成为日本审美观的根源,这一点。
从如今樱花作为日本的国花这点也可了解,表现了日本的美的“花鸟风月”的象征性存在。然而,作为樱花代名词的染井吉野樱,只不过是经品种杂交,于距今仅100年前才产生的花。
而且,在平安时代以前,咏樱的歌几乎没有,只有咏梅的。到底日本人是从什么时候开始将樱花作为自己的美来认识的呢?对此我们还有许多未知数。
而且,虽然我们有时称樱花美丽或者漂亮,是否有人在理解美丽和漂亮的区别的前提下使用这两个词呢?
另外,说起“日本之美”这个熟语,能立刻联想到“孤独、寂寞”的人也不少。但是,能够明确回答它的起源以及意义的人又有几人呢?
近年,日本的能剧获选世界文化遗产的无形遗产,作为能的审美观的“余韵(幽玄)”不断受到世界的评价。同时,日本的从属文化也在世界掀起热潮,所谓“可爱的”这种新的美的概念不断在世界各国广泛扩散着。
如此,我们日本人是否到了应该从新认知自己的审美观的时候?
作为日本人最根本的审美观的“优美”是什么?
“余韵(幽玄)”又或者“孤寂”、“漂亮”、“可爱”这些,究竟是怎么样一种审美观呢?
一起在日本人的心之故乡侧耳倾听一番吧。
----------------------------------------我是翻译的分割线--------------------------------------
读到后面,和靖国神社没什么关系了。
突然觉得很悲哀。那些战死的人们,无论是正义还是非正义,无论是侵略还是被侵略,我想人们应该首先承认,他们全部都是战争的牺牲品。应该责罚的是那些发起战争的上位者,那些无视人道,被任性罪恶面蒙蔽了双眼的人们,而不是战争的牺牲品。可是那些应该负起责任的人,却对外敷衍,对内欺瞒。
回归原文主题,审美观这种东西,究竟是什么呢?看作者提出这样的疑问。原书目录的序章里,列举了日本本土的歌人西行、俳句作者松尾芭蕉以及德国建筑家Bruno Taut三个人的故事。从第二章开始,依次写了“优美”、“余韵(幽玄)”、“孤寂”、“漂亮”几种审美观。终章则提到近代审美观,关于“日本美的输出”、“文明开化与无神论”等。最后列出了观赏红叶的名胜(在日本,春赏樱花秋赏枫)。
有一些些期待后文了。
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